1985年12月1日、待降節第1主日、社会事業奨励日
(説教要旨は翌週週報に掲載)
11月10日(日)午後、洛陽教会にてY氏葬儀
11月18日(月)〜19日(火)教団常議員会
11月24日(日)摂津三田教会での講壇
(牧会27年、神戸教会牧師8年、健作さん52歳)
詩篇 4:1-8、説教題「義を守られる神」岩井健作
”わたしの義を助け守られる神よ、わたしが呼ばわる時、お答えください。”(詩篇 4:1a、口語訳)
教区の交換講壇で、摂津三田教会(兵庫県三田市)に伺った。
この教会にも長年の信仰生活の光を真珠の如く放つ方々がおられた。
その前日は、やはり教区の信徒大会があり、止揚学園の福井光子氏が講演されたが、その時もリーダー福井達雨氏と共に「ほんまかいな」と思いつつも、二十数年を重い知恵おくれの子らと過ごしてきた生き方が、真珠の如く光っていた。
【1985年 兵庫教区 信徒大会】
テーマ《福音に生きる》ー信徒の連帯をめざしてー
講師:福井光子氏(重い知恵おくれの子どもの施設 止揚学園職員、能登川教会員)
日時:1985年11月23日(土・祝)10時〜16時
会場:灘神戸生活協同組合 生活文化センター
主催:兵庫教区信徒大会実行委員会
真珠の養殖はアコヤ貝の体内に外套膜の小片と核(いわば異物)を体内に入れ、その周りを貝殻質の物質が包んでいくことで、あのような美しい玉が形成されるという。
キリスト者の人格も、人間の内側からは出てこない神の愛や義を、いわば異物のように「ほんまかいな」と抱き続けるうちに形成されるものであると思う。
詩篇4篇を詠んだ詩人もやはり、神が「わたしの心にお与えになった」(詩篇4:7)ものを、異物として抱いている人間であった。
詩が詠まれた状況は定かではないが、注解の一つの意見に従って、6節の「多くの人の祈り」を雨乞いの祈りと解釈したい。
日照りが続き、作物が不作の時、多くの人は苦しい時の神頼みで、ひたすら祈ったという。
確かに農耕には豊作もあり不作もある、不作が自分のやり方に伴うものであれば、改善も必要であるが、自然条件の困難な時こそ、常日頃忘れてしまいそうになっている、神から受けているものに改めて気付かされ、助け合って生きることが大事であろう。
ただ神頼みの祭儀をするだけが宗教の水準であるならば、それはご利益宗教に過ぎない。
詩人は「多くの人」がそのレベルで信心を考えていた時、「あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びにまさるものでした」(4:7)という。
わたしの義を助け守られる神よ、
わたしが呼ばわる時、お答えください。
あなたはわたしが悩んでいた時、
わたしをくつろがせてくださいました。
わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。
人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。
いつまでむなしい言葉を愛し、
偽りを慕い求めるのか。
しかしあなたがたは知るがよい、
主は神を敬う人をご自分のために聖別されたことを。
主はわたしが呼ばわる時におききくださる。
あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。
床の上で静かに自分の心に語りなさい。
義のいけにえをささげて主に寄り頼みなさい。
多くの人は言う、
「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。
主よ、どうか、み顔の光を
わたしたちの上に照されるよう」と。
あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、
穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びに
まさるものでした。
わたしは安らかに伏し、また眠ります。
主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、
ただあなただけです。
(詩篇 4:1-8、詩篇4篇の全文、口語訳)
民衆が雨乞いの祭儀に傾斜する時、それに呼応して「人の子ら」(フランシスコ会訳では”位の高い人々”)すなわち王や国の指導者も雨乞いの祭儀をする。
詩人は言う。「罪を犯してはならない」(4:4)と。
神の前に罪を犯す自分の弱さと心で向かい合う経験こそ大事ではないか。
彼は「わたしの義を助け守られる神よ」(4:1)と祈る。
本来「義」は「神の本質」であって、人間のうちからは出て来ない。(中沢洽樹、フォン•ラート等、参照)
「わたしの義」とは、ちょうどアコヤ貝が異物を抱えているさまに等しい。
神に助けを求めつつ抱く以外に持ち続け得ないものである。
しかし、それがまた信仰者の姿である。
その祈りのある所に「安らかさ」(4:8)もまたある。
この詩人の心を宿していきたい。
(1985年12月1日 神戸教会 岩井健作)
1985年 説教・週報・等々
(神戸教会7〜8年目)