ほめられても、そしられても《Ⅱコリント 6:3-13》(1985 説教要旨・週報)

1985年3月3日、復活前第5主日
(説教要旨は翌週週報に掲載)

(牧会27年、神戸教会牧師8年、健作さん51歳)

コリント人への第二の手紙 6:3-13、説教題「ほめられても、そしられても」岩井健作

 ”この務がそしりを招かないために”(コリント人への第二の手紙 6:3、口語訳)


 コリント第二の手紙を続けて学びます。(前週

 パウロが論敵としてこの手紙で批判しているコリント教会の後からの指導者たち、この人たちは、エルサレム教会の権威をかざし、自分たちの特質としての宗教的熱狂を誇りとした人たちで、結局、神のことを語りながら、とどのつまり、人間中心主義でした。

 パウロはこの手紙の後の手紙、「涙の手紙」(コリント第二 10〜13章)の中で、「彼らはキリストの僕(しもべ)なのか!?」と問います。

 そして、キリストに従うゆえに、経験した労苦を切々と語ります(11:23以下)。

 今日の箇所でも4節以下のところで、小アジアやコリント伝道のことを振り返り、「極度の忍苦にもい、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも……神の僕(しもべ)としての自分をあらわしてきた」と語っています。

 パウロが自らを「神の僕(しもべ)だ」と言う時、様々な苦難の中で弱さをさらけ出しながらも、その弱さを通して彼を用いる「神の和解(5:20)」の力を信じて生きる生き方が強く出ています。

 「神の僕(しもべ)」という言葉は、ギリシア語で”ディアコノス”、仕える人・奉仕者の意味です。

 この言葉の元になっている”ディアコニア”という言葉が、今日の3節にある「この務め」という言葉です。

 ”この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、帰って、あらゆる場合に、神の僕(しもべ)として、自分を人々にあらわしている。”(コリント人への第二の手紙 6:3-4a、口語訳)

 これは、マルコ10章45節で「人の子が来たのも仕えられるためではなく、仕えるためであり」の「仕える」(”ディアコネオー”)で用いられているように、イエスご自身の生涯と生き方を示しています。

 ですから「この務め」という時、あれやこれやの務めという意味ではなく、イエス・キリストのあの唯一の務めという意味を込めて、それに支えられ、それを証しする、使徒の務め、伝道者の務め、を示しています。

 パウロは、コリント教会の指導者が神に仕えると言いながら、結局はその務めを水増しして似て非なるものへと変質せしめていることに我慢がなりません。

 塩味を失った塩(ルカ 14:34)の如きものです。

 例えば、医者が診断を誤った時、医者に診てもらう前より怖いものです。

 そういう意味で、神に従う者が、その恵みに全き信頼を置かないで、自分に都合の良い信じ方をする時も、また怖いものです。

 神が自らの「和解・恵み」によって私たちを受け入れて下さったことに全き信頼を置く時、「ほめられても、そしられても」その事が私たちを決定的に縛るものではなくなるでありましょう。

 ”ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕(しもべ)として自分をあらわしている。”(コリント人への第二の手紙 6:8a、口語訳)

(1985年3月3日 神戸教会 岩井健作)


1985年 説教・週報・等々
(神戸教会7〜8年目)

「コリント人への第二の手紙」講解説教
(1984-1985 全26回)

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