1985年2月17日、降誕節第8主日
(説教要旨は翌週週報に掲載)
(牧会27年、神戸教会牧師8年、健作さん51歳)
コリント人への第二の手紙 5:16-6:2、説教題「これらの事は神から出ている」岩井健作
16節に「今後、誰をも肉によって知ることはすまい」とあります。
”それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。”(コリント人への第二の手紙 5:16、口語訳)
パウロは「肉」を「霊」と対比させてしばしば用いていますが、「霊」とは神との関係を持っている状態で、「肉」とは神との関係で捉えられていない状態、つまり人間の自己完結的状態を現しています。
共同訳はそのことを汲んで「人間的な尺度で知る」と訳しています。
例えば、婦人会の証し(前週週報に掲載、本サイトでは割愛)では、その転換を越えた”信仰の証し”が語られています。
(O姉は6年間、月2回「関西いのちの電話」相談員ボランティア)
(O姉の)「いのちの電話」のボランティア奉仕でも、聞いてあげるという気負いがあるうちは、そこに自己完結的(自分本位)な思いがあったそうです。
相談者と同じ方向を向き「主よ共に宿りませ」と祈りを持つ時に初めて神との関わりでその方を知ろうとする姿勢が出来たとのことでした。
(I姉は社会福祉法人 真正塾で、20年間、職員として子供たちと共に過ごしてきた。塾には乳児院と養護施設があり、日々の子供たちとの生活、出身した子らに寄せるI姉の祈り)
別(I姉)の証しの「神が備えて下さった道」にも、そのことを思いました。
パウロの思いの背後には、ローマ6章6節の彼の信仰と思想があります。
”わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。”(ローマ人への手紙 6:6、口語訳)
「肉によって知る」という関わり方が「肉を頼みとする」(ピリピ 3:4)というように、直接的な知り方、「力」を介在した知り方であるならば、神が人に関わった関わり方は、イエス・キリストの十字架の死を媒介とした啓示でありますから、力ではなく愛による関わり方、直接性ではなく、相手の心に訴える関わり方です。
「肉によって知ることをすまい」ということは、事柄を《神の愛》の文脈で体験していくということです。
20節でパウロは「和解を受け入れよ」と言います。
”神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。”(コリント人への第二の手紙 5:20、口語訳)
コリント教会のパウロに対立する論敵は、神の和解、すなわち神が愛において「罪過の責任を負わせる事なく」(5:19)人を受け入れることを信じませんでした。
だから、”伝道”は自分たちの奇跡力や霊的熱意を誇示する自己拡張的な伝道となり、《キリストの十字架抜き》の伝道活動が可能でした。
パウロの「和解を受けよ」とは、それに対する批判です。
パウロの伝道は、和解された者が、どんなに拙くても、その務めを委ねられた主体とされるという”新しい”(5:17)創造の出来事でした。
”だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。”(コリント人への第二の手紙 5:17、口語訳)
だから「神と共に働く者」(6:1)であり、今が恵みの時であり、救いの日(6:2)となります。
”わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、今は救の日である。”(コリント人への第二の手紙 6:1-2、口語訳)
このテキストに、私たちは論敵から身を守るパウロではなく、積極的に論敵を越えていく姿を見ます。
「すべてのことは神から出ている」(5:18)と。
”しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。”(コリント人への第二の手紙 5:18、口語訳)
(1985年2月17日 神戸教会 岩井健作)
1985年 説教・週報・等々
(神戸教会7〜8年目)
「コリント人への第二の手紙」講解説教
(1984-1985 全26回)