呻き《Ⅱコリント 5:1-10》(1985 説教要旨・週報)

1985年2月3日、降誕節第6主日
(説教要旨は翌週週報に掲載)

(牧会27年、神戸教会牧師8年、健作さん51歳)

コリント人への第二の手紙 5:1-10、説教題「呻き」岩井健作

 ”この幕屋の中で苦しみもだえている。”(コリント人への第二の手紙 5:2、口語訳)


 先週に続いて第2コリント5章1〜10節を学びます。

 コリント教会の中で、パウロを悩ませていた人々には「霊的熱狂主義者」がいました。

 いわば個人的・主観的と言える「霊的・宗教的」体験の中で神について完結的信念を持っていた人たちでした。

 ですから「死」についての理解にしても、魂が肉体から離れて天に帰っていくという当時のグノーシス(覚知)思想の二元論的な考え方で安易に割り切ってしまい、「死と生」に絡まる、苦しみや悶(もだ)えを含んだ人間の現実的姿にじっくり関わっていく姿がありませんでした。

 これに対してパウロは「死」の現実を、彼らのようにある一つの観念から解釈してしまうのではなく、そのような観念からの解放をもたらす「他者」としての神を信じるゆえに、現実の悶えや苦しみに表される身体性や歴史性こそが大事だと強調しています。

 この箇所ではユダヤの黙示文学的表現で「幕屋」や「建物」(5:1)が出てきますが、それは「主と共に」(5:8)という神の人格的関係の時間的ありようの具体的表現です。

 パウロは「死」を観念的に克服するのではなく、苦しみ悶えすら通りつつ「死ぬべきものがいのちにのまれてしまう」(5:4)経過を大事にし、「肉体を宿しているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となる」(5:9)希望へと生きることへ目を向けます。

 ”わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体からは離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。”(コリント人への第二の手紙 5:1-10、口語訳)


 この第2コリント5章1〜10節をよく解説しうる他の箇所は、ローマ8章22〜28節です。

 ここでは、歴史の中で、さまざまな苦難を負う者に対して、神ご自身がその苦悩と共にある姿がこう記されています。

 ”御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる”(ローマ人への手紙 8:26、口語訳)

 ここの「うめき」という言葉は、第2コリント5章2節、4節の「苦しみもだえる」と同じ言葉です。

 また旧約聖書の出エジプト記2章24節の言葉でもある、使徒行伝7章34節でも使われています。

 「うめき」が積極的意味を持つのは、それが神の歴史への参与と救いの筋道の中心に関わりがあるからです。


 在日大韓基督教会 川崎教会の李仁夏(イ・インハ)牧師は『寄留の民の叫び』(新教出版社 1979)の中で、在日韓国•朝鮮人の「うめき」をこのように位置付けています。

 そして、その苦悩の存在に対して、「日本人が自らの責任として(人間が歴史的存在であることを自認するならば)関わらなくてはならない」と訴えています(上掲書 p.77)。

 今日は、在日大韓基督教会との「宣教協約」に基づく献金を捧げますが、歴史に生きる者の証しとして献げたいと存じます。

(1985年2月3日 神戸教会週報 岩井健作)


1985年 説教・週報・等々
(神戸教会7〜8年目)

「コリント人への第二の手紙」講解説教
(1984-1985 全26回)

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