1984年11月11日、降誕前第7主日
(説教要旨は翌週の週報に掲載)
「第23回 教団総会」出席のため出張:11月11日(日)〜14日(水)
(牧会26年、神戸教会牧師7年、健作さん51歳)
コリント人への第二の手紙 3:4-11、説教題「言葉に破れて」岩井健作
”文字は人を殺し、霊は人を生かす。”(Ⅱコリント 3:6、口語訳)
言葉が通じるということの背後には、まず相互の信頼関係がある。
このことは日頃あまり意識はされていないが、大事なことである。
パウロがコリント教会に記した手紙のこの部分(2:14-6:13、7:2-4)は、彼の側から言えば、まだパウロなりの説得や言葉が通じるという気持ちで書かれている。
しかし、実際にはコリント教会との関係悪化はもっと進んでおり、この部分(コリント訪問前の手紙)を送った後、コリントを訪れたパウロは不当な仕打ちを受けた。
やむなくエペソに撤退した。
「文字は人を殺し、霊は人を生かす」とパウロが語る時、そこには彼の人生や信仰の深い体験がにじんでいる。
決して通り一遍の借り物の言葉ではない。
「文字」とは「律法」のことであり、彼自身が生きてきたユダヤ教の価値体系であった。
今や彼はそれとは別な価値体系に生きている。
《律法から福音へ》という転換である。
人生の価値転換ということが、どんな大きなことであるのか。
パウロはそれを後ほど「ローマ人への手紙」、特にその前半の部分で展開している。
今日の箇所では、律法の務めを「文字による死の務(3:7)」「罪を宣告する務め(3:9)」と言い、新しい価値観を「新しい契約に仕える者(3:6)」「義を宣言する務(3:9)」と言っている。
パウロを知る者にとっては、これは体を張った言葉である。
しかし、その言葉が通じないのが今の状況である。
彼は相手に向けられた「文字は人を殺し、霊は人を生かす」を自分に言い聞かせる言葉として、ここでもう一度受け止めざるを得ない。
言葉に破れ、言葉にうめき、言葉に死ぬ。
このことが心にしみる。
そして、死語こそが神の力により生きた言葉となることが証しされている。
石原吉郎はこう言っている。
”私は青年のころ、ひたすら心の平安をねがって教会をたずねたが、教会はけっしてそのようなかたちで、人に平安を与えるところでないことを、のちになって知ることができた。じつに人間を不安へ向けてめざめさせるところ、それが私にとっての教会だったのである。そこではことばは、もはや伝達を自明の理として語られることばではない。ことばは信仰の証しとして、一歩ごとに蹉跌(さてつ)の危機にさらされる”(石原吉郎『断念の海から』 p.41、日本基督教団出版局 1976)
そして彼はその言葉の挫折をつつむ希望としての保証の確かさを信じ待つ中に生きる。
そこには「文字は人を殺し、霊は人を生かす」を一息のうちに含み込んだ生き方がある。
私たちもそういう生き方を祈り求めていきたい。
(1984年11月11日 説教要旨 岩井健作)




1984年 説教・週報・等々
(神戸教会6〜7年目)
「コリント人への第二の手紙」講解説教
(1984-1985 全26回)