永遠の所属《ローマ 8:31-39》(1984 説教要旨・週報・永眠者記念礼拝)

1984年11月4日、降誕前第8主日、聖徒の日、
永眠者追悼・記念の祈り」永眠者記念式
(説教要旨は翌週の週報に掲載)

(牧会26年、神戸教会牧師7年、健作さん51歳)

ローマ人への手紙 8:31-39、説教題「永遠の所属」岩井健作

 「森鴎外の遺書」という一文を読んで、人は現世では如何に「所属」に耐えている存在であるかを思った。

 「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ、奈何(いか)ナル官憲威力ト雖(いえども)此ニ反抗スル事ヲ得ズト信ズ。余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス。」(大正11年7月6日、「森鴎外の遺書」より)

 という彼の遺書には、旧家森家と軍医として官に所属する鴎外が、若き日ドイツ女性との結婚も自由にならなかった所属の重さとそこからの叫びが感じられる。

 しかしまた人は地上の所属から離れては生きられないのも事実である。

 例えば、生まれながら所属する家族のつながりは、無くてはならぬものである。

 それでいて、その家庭に所属することが個としての自分であり続けるには、いかに多くの矛盾を持っていることかも多く感じられることである。

 マルクス主義は社会全体の問題の解決を優先し、それに対して個の問題を掘り下げる思想として実存主義が他方の極を作り、さらに両者を克服する思想として構造主義思想が提唱されてきた。

 どの思想に重きを置いて自己の存在の問題を解明するにしろ、鴎外が彼の遺言で露わにしたような自分が自分であるための「叫び」は残るであろう。


 ローマ人への手紙8章31〜39節に見られるパウロもまたそのような「叫び」を叫びながら生きた人であった。

 31節の「苦難(敵)」は、個人の力ではどうにもならない諸矛盾を示しているし、35節の「苦悩」は逃げ道のない実存を表し「迫害等」の具体的な出来事が描かれている。

 ”それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。”(ローマ人への手紙 8:31-35、口語訳)

 しかし、その中でそれらに呑み込まれない自分の存在の確かさが「叫び」によって示されており、その根拠が「キリストの愛(8:35)」「キリストに於ける神の愛(8:39)」「神が味方である(8:31)」という信仰の告白によって言い表されている。

 表現は様々であるが、そう叫ばせている事実が重く尊い。

 ”「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。”(ローマ人への手紙 8:36-39、口語訳)


 私たちも、自分の状況でもがきつつ、失われてはならないものを求めつつ守りつつ生きている。

 そして聖書のメッセージを聴くことは、それに呼応している。

 そして、それは深い所で、十字架の死の事実を通してのみ私たちと共にある神に関わることでもある。

 永眠者記念礼拝のこの日、教会につながって生きた多くの人たち、今はすでに亡き人々の、この世の所属の中でのそれぞれの叫びを聴き取っていきたい。

 人それぞれにその人の時代と場所からのみ発する叫びがある。

 しかし、それが固有であればあるほどに、それを通して希望を与えられ励まされるものには、永遠の響きが含まれていないだろうか。

 その叫びの底で、神在(いま)し給う故に、限定された所属と永遠の所属とは裏腹につながっている。

(1984年11月4日 説教要旨 岩井健作)


 

1984年 説教・週報・等々
(神戸教会6〜7年目)

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