1984年9月16日、聖霊降臨節第15主日、
説教要旨は翌週週報に掲載
(牧会26年、神戸教会牧師7年、健作さん51歳)
コリント人への第二の手紙 1:8-11、説教題「祈りによる助け」岩井健作
”あなたがたもまた祈をもって、ともどもに、わたしたちを助けてくれるであろう。”(コリント人への第二の手紙 1:11a、口語訳)
パウロは今日の箇所で、死を覚悟するほどの患難に出会い、「自分自身を頼みとしないで……神を頼みとするに至った」と、生き方の方向転換の体験を語っている。
”心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった。また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる。そして、あなたがたもまた祈をもって、ともどもに、わたしたちを助けてくれるであろう。”(コリント人への第二の手紙 1:9-11、口語訳)
この記述は、私たちにある《戸惑い》を覚えさせる。
パウロはすでにキリストに従う決定的回心を経験した伝道者ではないか。
自分自身を頼みとする律法主義に行き詰まり、キリストの十字架の死を通して啓示された神に委ねられた者ではないか。
その転換を自らガラテヤ人への手紙1章13〜17節で述べている者ではないか。
しかも、死に渡されていくことを「それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるため」(Ⅱコリント 4:11)と語ってさえいる。
”わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。”(コリント人への第二の手紙 4:11、口語訳)
だのに何故、今日の箇所では、今初めて神を頼みにするに至ったかの如く語るのであろうか。
「死を覚悟する」ような極度の患難とは程遠い所に立つ凡人には「神を頼みとする」信仰的実存の道遥(はる)けしの思いすら抱かせる。
しかし、この《戸惑い》を通して伝道者パウロの姿を見る時、回心後のパウロですら回心の体験を繰り返し辿るようにして《自分自身を頼みとすることから神を頼りにすることの生の転換の意味を深めていった》、その軌跡を思う。
パウロは「生きる望みをさえ失ってしまい」(1:8)とここでもトコトン《弱さ》をさらけ出す。
”兄弟たちよ、わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、”(コリント人への第二の手紙 1:8、口語訳)
伝道者の弱さ。
パウロはその弱さにこそ「十字架の福音」の力の働きを覚える。
「弱い時にこそ、わたしは強い」(12:10)と。
”だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。”(コリント人への第二の手紙 12:10、口語訳)
パウロはしばしば自分のためにも祈ってほしいと言う。例えば「テサロニケ人への第一の手紙」5章25節。
”兄弟たちよ。わたしたちのためにも、祈ってほしい。”(テサロニケ人への第一の手紙 5:25、口語訳)
そして、今日の箇所でも、コリントの教会の人々の祈りによる助けを信じて求めている。
”あなたがたもまた祈をもって、ともどもに、わたしたちを助けてくれるであろう。”(コリント人への第二の手紙 1:11a、口語訳)
彼はコリント教会の諸問題を生身に受けて、教え、諭し、叱り、たしなめ、怒り、また懇願する。
論理や言葉が裏目にすら出てしまう関係の中で弱り果て、そこで十字架の福音により息吹を取り戻して立つ。
わたしたちの信仰の生き方をそこに重ね合わせていきたい。
戸田伊助牧師に「息」という文章がある。
説教「息」は、戸田氏の著書『望みなき時にも』(戸田伊助、新教出版社 1976)の中のエゼキエル書 37章1〜14節の小説教。
前半、打ちひしがれた精神の荒廃と死を語っているが、後半の息吹へとその転換が心を打つ。
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。長い時間。魂よ、立て、頭をあげよ。どこからか、突如、不思議な言葉が私の精神に向かって、…響いてくる。…一切の営みの空しさ、不条理、怨念、我執、狂気、…その空間をつき抜けて、新しい言葉を語り出そう。真実、希望、愛のにじんだ言葉を語り出そう。静かに、そして強く」(上掲書)
(1984年9月16日 説教要旨 岩井健作)
1984年 説教・週報・等々
(神戸教会6〜7年目)
「コリント人への第二の手紙」講解説教
(1984-1985 全26回)