神の派遣

神戸教會々報 No.102 所収、1983.4.3

(健作さん49歳、牧会26年目、神戸教会6年目)

わたしは、まもなく、テモテをあなたがたのところに送りたい。 ピリピ 2:19


 過日、H教会で新任牧師の叙任式が行われた。一年近い無牧の後だけに会員の喜びの大きさがうかがわれた。私もその人事の斡旋をお手伝いしたり、幾度か講壇を応援した者の一人として感慨もひとしおであった。無牧中奮戦した役員の方が、「説教」は外来に頼めるが「牧会」の欠けは補えないと語った言葉がいつまでも耳に残っている。

 私は役目柄その式を司どる機会を与えられたが、式文中の「牧師の誓約と勧告」そして「教会員の誓約」を読むうちに、その言葉の意味に声が震えた。それは根源的には神自らが牧者であるが故にこの務めが支えられているという福音的事実に対する感動であった。新任のM牧師の入信・召命・献身・研鑽・招聘は、またそのことを充分証しするものであった。


 さて、獄中に囚われの身であったパウロは、ピリピ教会の牧会的諸問題の解決のためピリピに赴くことが出来なかったので、テモテを送ることとした。しかし彼はテモテを代理とは言わないで、それを「神の派遣」として捉えた。さらに、テモテが送られるまでに、さしあたりエパフロデトを送ることにしたという。このエパフロデトは元来ピリピの教会から獄中のパウロへの救援に遣わされた人であったがひん死の病気をしてやっと治った。人情としては、休養のためにピリピに帰ってもらうという感覚になり勝ちであるが、ピリピ人への手紙1章25節以下を読むと、パウロは彼を送ることがピリピの教会にとって必要だといって、ここでも「神の派遣」を明確にしている。使命を果たせなかった人について「大いに喜んで主にあって迎えて欲しい」(29節)という。普通我々の社会では、崇高な目標を立ててその実現に努力するとしたら、役に立たないもの、足手まといになるものは捨ててしまえ、ということになる。ところがパウロは役に立たなかったエパフロデトを送るにあたって、その人を喜んで迎えて尊重せよという。パウロは教会のことを「キリストのからだ(共同体)」と言ったが、この教会を場とした人の行き交いは、このような「神の派遣」が基本にある。

 私は就任式の式辞の中で「『新しい牧師がきた。やれよかった』というレベルの受け止めは超えて欲しい。そこに含まれている教会的場での神の派遣を汲み取って欲しい」と述べた。私たちは日頃、教会の人事にパウロが洞察しているような「神の派遣」の意味合いを汲み取っているだろうか。牧師や伝道師の異動、信徒の転入転出、さらには全体教会の役割への派遣など、これらが教会的場での出来事であるとの自覚をどれだけ持ち、その根源的意味を問い返しているであろうか。

 パウロは何故このように、人事について「神の派遣」の意味を強調したのであろうか。それは「教会」が究極的に希望をおき、「キリストの十字架」によってあがなわれた共同体であることにおいて、「この世」の雛形であるからである。それぞれの人は神から託された生を負っている。「この世」で、このことを見まがうことのないための、訓練の場として「教会」はある。エパフロデトを喜んで迎えることができるならば、ピリピの教会の人々は、社会の中でもまたそのように人々と出会ったに違いないと思う。

 私は今年教会に出て25年を経た。未熟さは言うまでもないが、「神の派遣」により遣わされた多くの信徒の方たちとの出逢いによって支えられてきた。

 その中でもこの5年は同労の教師の方たちと出会った。山口収教師、渡辺敏雄教師に続いて飯謙教師を今また新しい任務の地に送らんとし、木村良己教師を迎えんとしているこの時、「神の派遣」により支えられている恵みを想うことしきりである。