1981.9.13、聖霊降臨節第15主日、
説教要旨は翌週の神戸教会週報
翌週聖日は芦屋三条教会の講壇担当
(神戸教会牧師3-4年目、牧会23年、健作さん48歳)
この日の説教、ヨハネによる福音書 13:31-38、「別離」岩井健作
”あなたがたはわたしの行く所に 来ることはできない”(選句 ヨハネ 13:33)
ヨハネ福音書は、序と結論部分を除き、第一部(2〜12章)、第二部(13〜20章)と大きく二つに分けられる。
第一部がイエスの地上における振る舞いを記しているとすれば、第二部はイエスの死のあり様と意味が述べられている。
13章は、第二部の幕開けで、洗足、ユダの裏切り、弟子との訣別、が語られている。
「さて、彼(ユダ)が出ていくと」(31節)で始まる今日の箇所は、ユダが行動を起こし、イエス殺害の策動はもはや実行秒読みの段階にある、との緊迫した状況が告げられる。
”さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう。”(ヨハネによる福音書 13:31-32、口語訳)
イエスはその中で弟子との訣別をあからさまに宣する。
そこには十字架の死は即、神の栄光への道であり、師を思う弟子の思慕さえも断念しなければならないことが告げられている。
”子たちよ、わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言ったとおり、今あなたがたにも言う、『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない』。わたしは新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。”(ヨハネによる福音書 13:33-35、口語訳)
36節以下、ペテロの「あなたのために、命も捨てます」という決意、熱心、志さえもが退けられる。
イエスとの繋がりが人間の自力ではないことが、はっきりさせられる。
”シモン•ペテロがイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのですか」。イエスは答えられた、「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」。ペテロはイエスに言った、「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます」。イエスは答えられた、「わたしのために命を捨てると言うのか。よくよくあなたがたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。”(ヨハネによる福音書 13:36-38、口語訳)
しかし、イエスは弟子たちを「最後まで愛し通された」(13:1)
”過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。”(ヨハネによる福音書 13:1、口語訳)
どのように。
それは「互いに愛し合いなさい」という戒めを与えることによってである。
これはいわば「イエスの遺言」である。
けれどもここには、愛の対象、程度、方法は何も示されていない。
15章13節の「人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」との言葉から考えると、途方もない課題である。
”わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。”(ヨハネによる福音書 15:12-13、口語訳)
愛の戒めは一面、愛の不可能を自覚させ、神の前に罪の自覚を促すものであることも確かである。
しかし、訣別の遺言はそれをも包み、愛の可能性(神のゆるしと恵み)を信じて各自が愛の課題に目覚めて自立することへの招き、イエスの弟子たちへの愛おしみとしての意味が大きい。
ヨハネ16章17節には「わたしはほんとうのことを言うが、わたしが去っていくことは、あなたがたの益になるのだ」と語られている。
”しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。”(ヨハネによる福音書 16:6-7、口語訳)
そのことが助け主(聖霊)による自立した生き方の開始であることが示されている。
ペテロは、自己の願望の延長線上にだけイエスを見た。
”イエスは答えられた、「わたしのために命を捨てると言うのか。よくよくあなたがたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」。”(ヨハネによる福音書 13:38、口語訳)
私たちが聖餐式のたびに「主の死を告げ知らせる」という制定語を味わうのは、ペテロの如き思いを断ち切っていくことではないだろうか。
「別離」の後、残された者の生き方こそ、信仰による生き方である。
母親が病気で入院し、しばらく別離している子が、家で今までになく励んで自立していく姿などというものを日常よく見かける。
母の愛が一層濃いからこそ、そこに自立があるのだろう。
それと同じくイエスの訣別に、主に従う者への愛と自立への促しを覚えたい。
(1981年9月13日・20日 週報 岩井健作)