洗足《ヨハネ 13:1-20》(1981 週報・説教要旨)

1981.9.6、聖霊降臨節第14主日、
説教要旨は翌週の神戸教会週報
岩井牧師 東京出張:翌7日(月)8日(火)
日本基督教団 信仰職制委員会

(神戸教会牧師3-4年目、牧会23年、健作さん48歳)

この日の説教、ヨハネによる福音書 13:1-20、「洗足」岩井健作

 ヨハネ13章には「最後の晩餐」の物語が記されている。

 共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ福音書)では、この「最後の晩餐」物語は、聖餐式制定の物語と結びつけられている。

 ところがヨハネ福音書の著者は、それを注意深く省いて、その代わりに「洗足物語」を、この夕食の場面の中心にした。

 ここにヨハネが語らんとするメッセージがある。


 ヨハネが属していた教会は、当時、ユダヤ教の会堂から激しい迫害を受けていたという。

 聖餐の意義等、教義的なわきまえを表面上持った者が、ヨハネの教会からどんどん脱落してく現実の中で、ヨハネが、聖餐の意義よりも、イエスが弟子の足を洗ったという「洗足物語」の生々しさを叩きつけた気持ちが、この13章からひしひしと伝わってくる。

 信仰が生活と密着して生活を変えていくエネルギーとならないで、単なる気休めとしての観念、知識、教義、更には教養の一つとなるならば、それを破るには大変な精力がいる。

 ヨハネの文言にそれを感じないだろうか?


 いくつかのことを学びたい。

(1)「洗足」は当時奴隷の仕事であった。

 イエスがあえてそれを行ったことの意味は、仕えるということが単に師弟関係、主従関係等、特定された人間の間の関係に止まらないで、人間の上下関係を固定化させる社会体制批判をも含んでいることを見逃してはならない(マルコ 10:42-44)。

 ”そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間では偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。”(マルコによる福音書 10:42-44、口語訳)

 ヨハネがそのことを前面に出してないとしても。


(2)ヨハネは「洗足」で神の選びと先行の確かさを告げている(ヨハネ第一の手紙 4:10-11)。

 ”わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。”(ヨハネの第一の手紙 4:10-11、口語訳)


(3)イエスが足を洗った弟子たちのうちには、イエスを裏切ったユダが含まれていたということ。このことは大きい。

 誰が自分はユダの如くではないと言い切れようか。


(4)「互いに足を洗い合うべきである」(ヨハネ 13:14)

 どうせ他人の足など洗えないと言えば、ニヒリズム。

「足」とは誰かが償い、贖う部分。

 単に「足を洗え」と言えば、律法(倫理)主義。

 それを安易に捉えれば、ヒューマニズム。

 しかし、ヨハネの言葉にはそのどれにも堕すことのない緊張関係がある。

 ”しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。”(ヨハネによる福音書 13:14、口語訳)

 イエスが弟子の足を洗ったことの象徴場面に含まれている《救い(福音)と戒め》の緊張関係がある。

 そこをしかと押さえてこの物語を味わいたい。


(夏期休暇中)信州(長野県飯田市)の竜丘(たつおか)基督伝道館の礼拝に出て、午後の婦人会で年輩の婦人が自分の「家」での場を「仕える」という言葉で捉えていたことに、打たれた。

 そこには、イエスの「洗足」を偲ばせる光景があった。

 私たちも「洗足」を思い浮かべて、自分の生の姿勢を己が場で整えたい。

(1981年9月6日・13日 週報 岩井健作)


1981年 週報

1981年 説教

error: Content is protected !!