持ち物の誇りを撃つ神《ヨハネ第一 2:12-17》(1981 週報・説教要旨)

1981.1.18、降誕節第4主日、
説教要旨は翌週の神戸教会週報

(神戸教会牧師3-4年目、牧会23年、健作さん47歳)

この日の説教、ヨハネ第一の手紙 2:12-17、「持ち物の誇りを撃つ神」岩井健作

 矢内原忠雄氏(1893-1961 政治学者、無教会キリスト教伝道者、戦後•東大総長)の「ヨハネ第一書の研究」(『聖書講義《3》』岩波書店 1978. 所収)によれば、この手紙は名句や警句があるにもかかわらず、論述が論理的でなく、「老ヨハネの繰言のような印象を避け難い」と語られている。

 しかし、実際に矢内原氏は「光、愛、生命」の三つの言葉に焦点を当てて、見事に解き明かしを行っており、さらにこの書に親しみを増したのは「私自身の年齢がやや長じたこともあるかもしれない」と述べている。矢内原氏、40歳の時である。


 今日の箇所を注意して読むと、著者(多分年老いている)が信仰の後継者(手紙の受取人たち)にもつ驚くべき情熱を見る。

 「子たちよ」(12節)と呼んで、先に批判してきたグノーシス主義者に追随する者たちをも「み名のゆえに、……多くの罪をゆるされた」者として包んでいく信仰の懐の深さを見せている。

 さらに13〜14節では「父たち(信仰の経験において円熟した者)」と「若者たち(悪しき者に打ち勝つ意志的なあり方をする者)」をよく見据えた上で、15〜17節で、キリスト者の世に対する倫理を「世と世にあるものとを愛してはいけない」と語る。


 この言葉の中に、ヨハネ自身が長い年月、「肉の欲、目の欲、持ち物の誇り」(16節)と言われるものを断念し、克服し、相対化して、戦ってきた、信仰の戦いの経験を見ないだろうか。

 聖書には、持ち物(または富)から自由であることの戦いの歴史がある。

 ヨハネもそれを戦った。

 今日、日本の状況でそういった戦いが真剣に問題にされるだろうか。

 公私のケジメがいい加減にされる(汚職など表面に現れたもの以外にでも)風土の根深さは目に余るものがある。


 ヨハネは一見、繰り言のようであるが、「若い者」に自ら通ってきた信仰の戦いの経験を語る。

 ある青年に、戦中派の反戦思想家が「戦中派の愚痴が多くなった」と語った時、彼は「つまりそのことは、戦中派の遺産を僕らが食い潰しているだけで継承を怠っているのだ」と受け取ったとの年賀状を頂いた。

 それと同じことが、信仰の遺産の継承についても言える。

 「持ち物の誇りを撃つ神」の体験を、教会で、先輩たちは自らの経験として大いに語っていただきたいし、若い者は、それが繰り言のように聞こえたとしても、信仰の継承を怠るまい、と心を定めていきたい。

(1981年1月18日・25日 週報 岩井健作)


 ”子たちよ。あなたがたにこれを書きおくるのは、御名のゆえに、あなたがたの多くの罪がゆるされたからである。父たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが父を知ったからである。父たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。若者たちよ。あなたがたに書きおくったのは、あなたがたが強い者であり、神の言があなたがたに宿り、そして、あなたがたが悪しき者にうち勝ったからである。世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。”(ヨハネによる第一の手紙 2:12-17、口語訳)


1981年 週報

1981年 説教

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