御言を守る者《ヨハネ第一 2:1-11》(1981 週報・説教要旨)

1981.1.11、降誕節第3主日、
説教要旨は翌週の神戸教会週報

(神戸教会牧師3-4年目、牧会23年、健作さん47歳)

この日の説教、ヨハネ第一の手紙 2:1-11、「御言を守る者」岩井健作
”わたしたちのために助け主、すなわち義なるイエス•キリストがおられる。”(ヨハネ第一 2:1)

 ある集会で、社会心理学者が日本人の社会行動の特徴を、周囲の人との人間関係のバランスをとりながら、人と折り合っていく行動様式として捉え、決して自分の信念を貫いて生きるイデオロギー型とは異なる、と分析された講演を聞いたが、良い意味にも悪い意味にも当を得ていると思う。

 クリスチャンは悪くすると、イデオロギータイプの人間と理解され、日本的人間関係には馴染み難いように思われるが、本来、信仰に生きるとは、強い信念を持ってはいるが、決して教条主義的信条の持ち主になることではない。

 また、関係的人間であっても、その関係がごく近くの自分にとって都合の良い関係だけを考慮に入れるのではなくて、「神」の側から、強い他者性のまなざしに身を晒すような関係の中に生きることなので、だいぶ異なるとはいえ、日本人の”向こう側(外)から自分を見る思考”に連続性が全くないとは言い切れない。

 そのあたりに、日本の精神風土の中で、キリスト者であることの意味合いがあるのではないか。


 ヨハネの第一の手紙2章に即して考えるならば、著者はイデオロギー思考をするグノーシス主義者を批判している。

 「彼は知っている」(4節)と、神についての知をひけらかす者に対して、1〜2節で、神の根本的知り方は、「神に知られている」(ガラテヤ 4:9)の如く、自己の罪を「助け主」の力を借りて告白し得るほどに柔軟なもののうちにあることを説く。

 ”わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちの助け主、すなわち、義なるイエス•キリストがおられる。彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。”(ヨハネの第一の手紙 2:1-2、口語訳)


 続いて3〜6節では、「神の愛」が個々人の人柄のうちに「全うされる」ことが、信仰の目標であり、7〜8節では、それが「御言=戒めを守る」ことでなされると言う筋道を説き、9〜11節では、まず足元の「兄弟を愛すること」が手がかりである、と信仰の実践が勧められている。

 ”もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。”(ヨハネの第一の手紙 2:3-6、口語訳)


 ”愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。しかも、新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。”(ヨハネの第一の手紙 2:7-8、口語訳)


 ”「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。”(ヨハネの第一の手紙 2:9-11、口語訳)


 そこには、自分の信念のみを頼りとする傲慢さが退けられると同時に、融通無礙な無節操人間ではなく、「神のみ言葉=神を愛し、人を愛するという戒め」を、生きる人間への招きがある。

 イデオロギー的人間には、戦いはあっても、矛盾への苦しみはない。

 周囲に合わせるだけの人間には、自分を祈ることはあっても戦いはない。

 しかし、この二つを合わせ繋げていく人格(パーソナリティ)への召しを受けているのが、キリスト者ではないだろうか。

 そのような生き方の中で、「助け主」がおられるというみ言葉に慰め深いものを覚えないだろうか。

(1981年1月11日・18日 週報 岩井健作)


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