孤独と連帯《ルカ 11:1-8》(1979 主の祈り・礼拝説教要旨・週報)

1979.10.28、神戸教会
説教要旨は11月4日の週報に掲載

(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)

ルカによる福音書 11:1-8、説教題「孤独と連帯」


 この聖書の箇所の冒頭には、弟子の一人が思わず「祈ることを教えてください」と叫びを発せざるを得なかった程の、イエスの祈る姿の鮮烈さがある。


”また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終わったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。”(ルカ 11:1、口語訳)


「祈り」が厳格に教えられたユダヤ社会に育った弟子たちさえもが、今までの祈りがまるでイミテーションの様に色褪せて見える程、真摯な祈りがそこにあったに違いない。

「祈ることを教えてください」という叫びこそ、私たちの祈りの出発点ではないだろうか。

 祈りが惰性になったり、祈れない自分にこだわる時、イエスが祈った姿への注視が、私たちを祈りへと引き戻す。

 そして、祈る資格すらない者へ、賜物として、与えられているものが「主の祈り」であることに気付かされる。


「主の祈り」には恵みによって変革されていく人間像が描き出されている。


”そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。”(ルカ 11:2-4、口語訳)


① 「御名があがめられますように」と祈る時、己が腹を神とし、自己の人間的諸力を頼みとする自分が砕かれるための戦いが示唆されている。そして「十字架において人間に啓示された神の御名に栄えが帰せられる」(A.ケルヴェン)まで心を澄ませたいと願う。

② 「御国がきますように」との祈りは、不条理の世界を突き抜ける希望を与える。

③ 「わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください」。その日一日の糧を祈り求める貧しき者たちの「わたしたち」という共同性は、自分のことだけを考える金持ちとは無縁なものであるだろう。

④ 「わたしたちの罪をもおゆるしください」。神の赦しの大きさを経験するほどに、人を許してはいない自分に恥じる。

⑤ 「試みに会わせないでください」。ある出来事が誘惑となって、私たちの悪しき本性を誘い出すのではなく、そのことが試練となって練られていくことをいつも求めていきたい。


 この様に祈ることを教えたイエスは、祈りによって、我々の人間性が神との関わりで成熟していくことを求められたのではないだろうか。

 5節から8節のたとえ話は、想像力と洞察を巡らすならば、祈りへの励まし多き物語である。

 神は祈りを通して人を育て給う。

 祈りは孤独な営みであるが、神が人と共にあり給うこと、神の人への連帯を知らされる。

 ローマ 8:26-27はそのことをよく語っている。

”御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。”(ローマ人への手紙 8:26-27、口語訳)


「うめき」は、孤独と連帯の狭間にある。

 小さな祈りも「御霊(神)みずからの切なる呻(うめ)きによる執り成し」に支えられていることを忘れることはできない。

(1979年10月28日 礼拝説教要旨 岩井健作)


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