PEACE・ヘイワ・平和(1972, 2014 岩国)

「月刊キリスト」1972年3月号(日本基督教協議会文書事業部 p.24-28)初出
兵士である前に人間であれ』(岩井健作 ラキネット出版 2014、p.87-98)再録

(岩国教会牧師7年目、健作さん38歳)

 公共料金の値上げがめじろ押しに控えていて、七円はがきも最後になりそうな新年のある日、知人から十円切手をはった私製はがきが舞いこんできた。ふとそれを見つけた子供が、どうしてこのはがきだけは十円なのだろうか、と不思議そうに問うので、「考えてごらん」とそらすと、学校の理科の時間よろしく、しきりと長さや重さを官製はがきと計りくらべて、違いを調べていた。そのうち音をあげて行ってしまった。あとはこちらの想像なのだが、送り主とて、値上げを先取りしたわけではあるまい。店が休みか何かで、七円切手が手にはいらず、持ち合わせの十円切手をはって出したのではあるまいか。出しそびれて便りが延び延びになることを恐れての処置だったのかもしれない。「はがきは七円である」と固定観念をもっている人や、どんな時にも一円たりともむだを許さないのが信条である人は別にして、この程度のことはわれわれにもありそうなことだと思う。

 はがきは七円である、という場合、七円ということに強くしばられて、七円でなければならないという考え方に近い発想をしてしまう人もいる。他方、ある時には、七円であればよいと考えて、十円切手をはって便りという目的を果たさせることのできる人もいる。後者の考え方は前者に比べて柔軟であるが、その違いはどこにあるのだろうか。七円であればよいという考え方には、はがきそれ自体を規定してかかるというよりは、はがきは七円以下では目的を果たせないという一つの限定が見きわめられている。この限定を見きわめていくものの考え方が柔軟さを生んでいると思う。

 編集者から与えられた題は「連帯への試行」というむずかしい課題であるが、十円切手をはって便りを出すことを可能にするような、限定をみきわめていく発想を手がかりに、身のまわりの課題について、それが連帯を生み出す方向に開かれているのかどうかを考えてみたい。

 土曜日の午後ともなると、米軍基地の兵士たちは、人のよい若者にかえって、近郊にくり出す。山あいの小道で、サイクリングの自転車を止めて苔むした鎮守の石鳥居をめずらしそうにカメラにおさめているGIに出あうこともあるし、ピカピカのオートバイを止めて潮風にふかれているGIたちの一群に出あうこともある。ピースサインといわれるVの字を指で作って彼らに合図をすると、その反応はまちまちである。ある者は一瞬とまどいニヤツと笑いを返す。

 ある者は虚をつかれて、仕方なさそうに手をあげてVサインを作る。かと思うと、目を輝かせて、意志的に力をこめてVサインの手を前に差し出し“PEACE”「ヘイワ」と言う者もいる。彼らのいう”PEACE”という意味は、無意味なベトナム戦争や、それを遂行する軍隊への反対の意志表示であるらしい。軍隊にしばられた生活への反語である。いま、日本では「平和」という言葉は相当に風化して、空しい響きをもつ。「日本の平和を守る自衛官募集」などに至っては、害がある。これに比べると、GIたちの使う「ヘイワ」は、戦争には反対だ、という感情を伴ったものであり、はっきりした限定をもっている。日本で一般に用いられている「平和」とは決定的に違う。軍を否定していく方向をもっている。彼らが”PEACE”というときその内容は単に軍隊はいやだということかもしれない。しかし、それがはっきりと否定すべき限定をもっているゆえに連帯を生み出し得るものなのである。もし平和という言葉の内容規定からはじめたとすれば、そこにはいくつもの平和路線が生じて、決して連帯は生まれないだろう。また、たとえ反戦ということばを用いても、反戦の内容規定から出発するならば、いくつものセクトを生み出し、決して連帯は生まれないに違いない。岩国におけるいわゆる「反戦GI」たちの発想は、まず内容規定からはじまっていない。そこに今までさまざまな人との連帯を可能にした理由がある。

 一つの限定が、自己規定や所属を示すのではなくて、その外側に向かっての意志表示や方向性である場合、その広がりの中で連帯ができるのである。反戦GIの中には、ラディカルな反体制思考の人もいるし、厳密な意味で自己の信念に忠実であろうとする良心的兵役拒否者もいる。それぞれは、戦争には反対という共通な広がりにありながら、また別な意味で限定づけられた立場や領域を持っている。ちょうどいくつかの放物線が縦横に重なりあって平面を分けているようなものである。だれ一人としてまったく同じ領域だけを相手と共有することはない。だからこそイデオロギー的に同志になってしまわないで、違いがありながらつながっていく連帯が生じる。限定をみきわめていく発想が連帯を生み出すというのはそのような意味においてである。

 GI運動を支援する人たちは、岩国で大変な困難をおかしてコーヒーハウスを開店させようとしている。コーヒーハウスを支えていきたい市民の一人として、釈迦に説法を恐れずにあえて言えば、これを担う人たちが、自己を規定してかかる発想に陥らない為の努力をしていくことが大切だと思う。たとえばコーヒーハウスは即反戦活動であるなどの発想である。市民にとってコーヒーハウスは、ごく単純に、あたりまえの、うまいコーヒーを飲ませ、味のよい軽食を出す店であって欲しい。これはスナックが持つ限定である。この限定に立つことが市民との連帯を生む素地であるし、GIたちとの連帯への可能性ともなる。そして外からの権力の攻撃との戦いのとりでともなる。この限定が守られてこそ、GI運動、反戦活動、CO(良心的兵役拒否、”conscientious objection”)支援等々を包み得る。内を規定してかかる発想からは決して連帯は生まれない。見きわめられた限定が、あたかも不等号がそれ以上の広がりを指し示すように、外の広がりを幾重にも組み合わせていくとき、連帯が生まれる。コーヒーハウスの運動の歴史について、僕はあまり知らない。しかし、それがGI運動の拠点たりうるのは、そこにはじめから「反戦」という思想があることによってではなく、一つの思想を強制しないことが活きていることによると思っている。軍隊にはない自由が確保されていることが要であると思う。昨年、岩国基地への核持ち込み問題が国会で明らかにされた際、当局は軍法を破ってまで四人の兵士を本国移送にした。あたかも核搬入情報に直接関係があるかのごとき仕打ちであった。この中には良心的兵役拒否者(それの申請中は基地司令官さえ当人の移送をすることは法的にできない)ポール・ニーホーン伍長もいた。この処置は、日本の市民とGIとが自由に話すという日常的な営みへの挑戦である。コーヒーハウスは、GIたちが、また日本市民とGIたちが自由に話し得る場として存在するだけで、軍への戦いである。そこでわれわれが核兵器の危険について話し合う自由は、われわれの日常的な自由として作り出してゆかねばならない。そんな意味でコーヒーハウスをみんなで支援していきたい。

 内を規定する発想と、一つの限定が外の広がりを指し示していく発想という分け方から考えると、日本基督教団の「戦争責任告白」は、明らかに後者に属する。その意義を認めながらも、戦責告白には教会論的歯止めがないので危険だという人があるが、もともとそのようなものではないのである。そしてその危険を気にするあまり、戦責告白が限定づけた外の広がりから目をそらし「信仰告白」による自己規定に腐心している人たちがいる。が、その間に戦責告白の具体的現われとしての清鈴園建設運動がすすめられた。一滴一滴のしずくがせせらぎとなって流れるように、熱意、祈り、支援、献金(八千万円)が寄せられた。このことは、戦責告白のもっている発想が生み出してきた連帯である。教団信仰告白の成立が、その主な動機において内容規定という形のうえの一致のためのものであったのと比べて印象深い。教団の中枢の機能麻痺にもかかわらず、教団は運動の中に生きているといってよい。

 清鈴園を見学したある牧師が「ぜいたくすぎる」と言ったとかいうが、社会の水準から見れば、むしろ貧しい。そんな中で建設委員会が老人のためのもの、たとえば浴槽とか介護ベッドは、ほかのものを節減しても最高のものを確保したことに敬意を表したい。清鈴園が老人の介護という限定に立つ以上、そこに広げられる範囲に対して限りない課題を負う。他方、建設ニュース(8号)にも述べられているように被爆者に対する責任を負う。もっとも国の被爆者に対する福祉施策とのかねあいや、国県補助を得るための譲歩から「広島原爆記念」の名を冠することはできなかったが、その目的に変わりはない。しかし現実には、被爆者入居希望者が建設までの三年間に死亡したこともあり、また被爆者との接触が今後の努力に待たれることもあり、開園時被爆者入居者が三分の一にとどまったと報告されている。このことは清鈴園即被爆者救援とはならないことを示している。そしてそれはそれでよいことだと思う。

 清鈴園運動は被爆者救援や核兵器廃絶運動と同じではない。それは老人福祉という横糸をていねいに織ることによって、縦糸の被爆者問題をたどる運動である。他方、清鈴園の現場での一人の被爆者の個人史から逆に国の被爆者施策に対する批判が鋭くなされ、核兵器廃絶が訴えられていく広がりをもっている。清鈴園運動はそれが自己完結的運動でないゆえに、一方においてわれわれを街から山へ(清鈴園は極楽寺山の中腹にある)引きよせ、他方において山から街へわれわれを押し出す。そしてその二つの広がりと方向を限定づける位置に立っている。

 清鈴園運動が戦責告白の具体化というとき、なにか戦責告白を固定的に原点としているのではなく、告白そのものの姿勢、主体的あり方が、清鈴園運動において具体化されるのだと思う。その意味で、戦責告白と清鈴園運動とはつながっている。連帯を生み出しうる発想においてつながっているのだと思う。

 それに比べて、教団教師検定委員会が、試験実施にあたって発表した「見解」のことを思わざるをえない。この見解は「おおよそ信仰告白の核心はイエスをキリストと告白するにある」と言っている。キリストと告白することの内容について、解釈の多様性を認めながら、その内容討議への道を事実上閉ざす形で「この核心を否定しないかぎり日本基督教団の教師たりうる」といっている。わたしは、この「見解」のもつ発想が、今まで述べてきたような意味からいえば、内を規定する発想であり、連帯を生み出さないゆえに批判する。

 信仰の告白というものは、特定の概念によってなされる教義の承認ではないと思う。用いられる言葉や概念というものはいつも歴史的制約の中にあるのだから、同じ教義を承認していてもその内容には種々な層がある。そしてその概念をめぐって思想的討議が可能でなければならない。イエスの弟子ペテロは、「あなたこそキリス卜です」(マルコ 8:29、口語訳)と告白している。マルコによれば、イエスはこの告白を肯定もせず、否定もしていない。ただ沈黙が命じられている。告白は否定するとかしないとか、丸バツ式答案のように正誤を決められるものではないことが示されていると思う。ここで「キリスト(メシヤ)」という概念が用いられていることよりも、他の人が去っていく中で、ペテロなりのイエスに対する自分というものが表明されていることのほうが重要だと考える。自分たちは単なるラビ(ユダヤ教の教師)の弟子ではなく、イスラエル人が伝統的に待望していたメシヤに従う群れなのだという自覚が表明されている。イエスヘのかかわりを表明することによって、自覚的告白主体が歴史の中で具体的に働いている、その事実こそが信仰の告白において、見落とされてはならない大切な点である。特定の概念による教義の無条件承認を絶対視する発想においては、その事実が省みられない。とすれば、そこには統一やイデオロギー的一致をみた同志があったとしも、主体と主体とがふれあう連帯は生まれない。そのような発想をもって教会はどのようにしてこの歴史の中で連帯を生み出す力となるというのか。むしろ知らぬうちに、歴史の中で統制を必要とする側の力たる「国家」の中に組みこまれていくに違いない。そして、すでに自らがそのような教会の中に居続けていることの自覚をぬきにして、この問題は捉え得ない。みずからの頽廃と戦うことのみが連帯への試行である。

 「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」(イザヤ 6:5、口語訳)。これは旧約聖書中、有名なイザヤの召命記事の中のことばである。この記事の書き出しは「ウジヤ王の死んだ年……」(1節)となっている。ユダ王国の有能な王が何故イザヤの召命と関連づけられているのだろうか。ウジヤは晩年「重い皮膚病」だった。歴史書によれば、それはすべての権能をみずからのものとしようとして神の怒りにふれた結果だという(歴代誌下 26:16以下)。マルチン・ブーバーによればウジヤ王の自己完結的なものの対極、それの否定がイザヤの召命経験だったという。人間的構想が圧倒され覆されていく経験であった。イザヤはそれまで同胞や支配者の腐敗を責めるにやぶさかではなかった。しかし、召命経験の中で、腐敗した社会に寄生している自分が審かれ否定されていくことを体験した。同時に主(ヤーウェ)のあわれみによってのみ立つ自分を知った。そして、以後、神の審きを語りつつ、自分の民族の罪責を負い続ける生き方がはじまったのである。小田実氏(「朝日ジャーナル」1972年1月14日号)が、大村収容所の外で日本語で中の朝鮮人に呼びかけた自分を省みて、「名状し難い羞恥」といっている。朝鮮人に日本語を押しつけてきた過去の歴史を負い続けねばならぬことを示している。「わたしは滅びるばかりだ」という罪責の自覚こそが、実は連帯への第一歩であることに気づかされる。戦争はすまい、という単純な限定から広げられていく連帯を生きることが、現代における連帯の芽であるが、その限定をしっかりと見極める目は、罪責の自覚なくしてはあり得ない。そして、その罪責を歴史の中で具体的に捉えるかどうかが決定的に重要である。そのことは一つ一つわれわれに関わりをもってくる事件への日常的取り組みをぬきにしてはないと思う。

(岩国教会牧師 岩井健作)



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