1972年2月20日 岩国教会週報
「先週説教より」コリント第一 2:1-5
(岩国教会牧師6年目、健作さん38歳)
過日テレビ(NHK)で『柏木義円 – ある牧師の生涯』を観て感じたことを手がかりに、パウロの言葉を読んでみたい。柏木は草深い安中教会(群馬)に40年牧会し、明治・大正・昭和にわたって「上毛教会月報」に於いて社会正義と平和主義の論陣を張った牧師である。NHK教育テレビを観るほどの人は、何程か心打たれ、啓発されたことであろう。しかし、柏木を理解するということは、柏木についての知識を得ることだけではなくて、柏木がその当時の社会で身を置いていた地点(例えば、彼の言動は危険視され、著作はしばしば発禁処分になった)を軸にして、今自分はどうなのかという目を持って彼を観ることだと思う。その時、私などやはり彼ほど身を懸けていない自分を知る。柏木を調子よく巧みな言葉で語るには程遠い距離にある自分へのわきまえを失ってはならないのである。これと同じような「わきまえ」を持っていたのが、コリント第一2章1節以下に表されたパウロの姿だと思う。
「神のあかし=十字架につけられたキリスト」(1-2節)には「すぐれた言葉や知恵」、「巧みな言葉」「人の知恵」(1,4,5節)の立ち入りを許さないものがある。それについて語ろうとすればする程、自分が「十字架のキリスト」から程遠いところで生きていることを知らされるような事柄の意味がある。「十字架につけられた」の「つけられた」は「釘付けにされた」の意味である。そこからの問いは私たちの饒舌を深く抉(えぐ)る。私たちは、そこでは弱くかつ不安に慄(おのの)く。その彼方のこと、福音は「霊と力との証明」(4節)に属する事柄である。そのわきまえの上での言葉は、相手の主体的あり方を「神の力によって」(5節)強くしていくものとなる。自らの不安を解消していくような、それゆえに十字架からの問いを失くしてしまうような、そんな語り方を止めよう。
(1972年2月13日 岩国教会 岩井健作)


