2007.10.10 「福音書の中のイエスの譬え話」第3回
湘南とつかYMCA「聖書の集い」

(明治学院教会牧師 74歳)
ルカ福音書 11章5−8節
「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達が私のところに立ち寄ったが何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供達はわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくとも、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」

この譬えには、素朴なパレスチナの村の生活がいきいきと描かれています。
朝パンを焼いてもう夕方にはその蓄えのない家庭と、夕方に蓄えがある家庭とはもう初めからよく知られていたのでしょう。
パンを貸して欲しいと頼む、そんな村の付き合いを想像しながらこのイエスの譬えを読んでみませんか。
かつて丸山真男という著名な政治学者は『「である」ことと「する」こと』(『日本の思想』岩波新書 1961)という評論を書きました。
友だちであることと、しつように頼むこととは、どっちが生きることのなのでしょうか。
イエスはこのなかで何を暗示したのでしょうか。想像力を巡らせてみたいと思います。
