2014.4.16、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「現代社会に生きる聖書の言葉」第73回、「新約聖書 イエスの生涯から」③
(前明治学院教会牧師・退任後1ヶ月、健作さん80歳)
マルコによる福音書 1章14節-20節
1.レオナルド・ダヴィンチの有名な「最後の晩餐」の絵の弟子の数を数えてえてみると12人です。常識的に語られているイエスの弟子たちは12人であった、と一般に思われています。しかし「12使徒」という言い方は新約聖書では紀元1世紀の使徒文書(ルカ福音書と使徒言行録)にしか現れない表現です(マルコ3:14は特定の写本にのみある)。
マルコ福音書によれば直弟子のはずのレビ(マルコ2:13-15)が12人のリスト(マルコ3:16-19)に載っていません。マタイは「レビの召命の物語」を「収税人マタイを弟子にする物語」(マタイ9:9f)に書き替えています。
「12」というのは、旧約聖書のイスラエルが「12部族」であったので、エルサレムの原始教団が自分達の共同体を「新しいイスラエル」の象徴として理解して表現したことに由来するというのが、多くの新約研究者の見解です。
実際「12人」が最も多く登場するのはイエスの受難物語との関係においてです。
イエスの最後のエルサレム行きとの関係で多くの弟子たちから選ばれた者たちで、イスラエルの救いを象徴する「過越祭」を、12部族を象徴する12弟子を引き連れ上京した、という一つの象徴行為として表現されたのだと思います。イエスの直弟子と思われる人はかなり多かったと予想されます(ルカ10:1、10:17では72人)。
2.弟子物語の特徴には「イエスが弟子を招き、弟子は従った」という関係にあります。
今日の箇所では次の通りです。
「わたしについて来なさい……二人はすぐに網を捨てて従った」(17-18)
「彼らをお呼びになった……一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(20)
普通、習い事・研究・修行では「門下に入る」といって弟子を志す人が師を選ぶ関係になっていますが、そこに自ずと門下生集団ができます。イエスと弟子の関係は、その逆になっています。
イエスが弟子を招いた時期は、イエスの活動の初期であったと言われています。
イエスの弟子たちの特徴は「漁師であった」(16)に象徴されるように、当時の社会の上流の知識人ではなく、下層の労働者、生活者であったと思われます。
例外的にはニコデモ(ヨハネ3:1f、ユダヤ教パリサイ派の指導者、ユダヤ議会《サンへドリン》の議員、イエスの遺体を自分の墓に葬った人)などもいました。
ユダヤ教の改革的活動をしたエッセネ派のバプテスマのヨハネは「ヨハネの弟子たち」(マタイ11:2、11:7)とあるように、一つの集団を形作っていました。しかし、イエスの弟子集団は少なくともイエスの生前には一つの特定集団を作ってはいませんでした。この不定型は、イエスの招きに従うことが強調されて、そこに集団が形成されるかどうかが第一の問題ではなかったことによります。
ここに目をとめる宗教思想家に笠原芳光氏がいます。
「不定形というところにイエスの思想の特色がある。不定形というのは曖昧とか混沌というのとおなじように、とくに近代においては排除されてきた概念である。だが現代においては、むしろ形式的、固定的な定型よりも、柔軟な、自由な考え方として評価されるようになった。」(『イエス 逆説の生涯』春秋社 1999、107頁)
秩序と自由、人工と自然、機械技術と手造り、党派と運動体、具象と抽象、現実と幻想などを連想させる概念が不定形です。
ある意味ではそれは危険であります。しかし新鮮な可能性を秘めています。
後の原始キリスト教は、組織・教義・儀礼が整えられ、ローマ帝国下では迫害に耐え、やがて国家を補完する思想となりました。ローマ帝国は、380年、キリスト教を国教にしました。強固な定型のキリスト教が国家に役立ったのです。中世では修道院運動、近世では宗教改革など定型を破る試みがなされてきました。
歴史の中で繰り返し起される「イエスに帰れ」という運動の根本はイエス自身にあります。

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