見える教会、見えない教会(2014 礼拝説教)

2014.3.2、明治学院教会(329)降誕節 ⑩
単立明治学院教会 主任牧師として最後の月
牧会56年(1958-2014年)最後の月、80歳
最後の牧会祈祷 3.11から3年)

申命記 10:12-13、エフェソ 1:15-23

 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。(エフェソの信徒への手紙 1章22-23節、新共同訳)

1.「教会はキリストの体」というパウロ的表現は「信仰告白」などを通じて馴染んでおられるかと思います。パウロはこれを「十字架の死に与かること」(ロマ 7:4、コリⅠ 10:16)を含めて、共同体論として展開しています。「体は手と足……」の譬え(コリⅠ 12:12、12:27)は有名です。しかし、パウロより後に書かれた「エフェソ」は「教会はキリストの体」に「キリストが教会の頭である」を加えました。

2.「エフェソの書簡」は「パウロの名による書簡(つまり偽書)」(コロサイ、エフェソ、テサロニケ第2、テモテ第1・2、テトス)の一つです。「コロサイ」を下敷きにしています。

「エフェソ」はもっぱら教会論に力を入れて、ユダヤ人と異邦人とが、キリストにおいて一体化することを説きます。執筆年代は80-90年頃です。パウロ後、有力な指導者だった「使徒および預言者」が絶えて、全体教会の中に一種の危機感がありました。

「そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し」(エフェソの信徒への手紙 2:20-21、新共同訳)

 などは、今までは有力な指導者に従っていれば良かったが、一人一人が自らの信仰、特に教会論をしっかりさせねばならいという状況がきている事を推測させます。

 パウロの教会論(共同体論)だけでは持たなくなってきたので「キリストはすべてのものの上にある頭」として「絶大な働きをなさる神の力」(エフェソ1:19)を悟るようにという執り成しの祈りが、前段(エフェソ 1:15-19)で祈られます。

 後段(エフェソ 1:20-23)は「キリスト讃歌」です。ここには古代世界の宇宙論「神は宇宙のかしら」(ヘレニズムの神話的宇宙論)を援用して、パウロにはなかった「教会の頭はキリスト」という概念を持ち込みます。教会は個々の信徒の集まりという以前に、強力な「頭」によって「キリストの体」として形成されているという信仰です。信徒はそこに、事柄としては後から仕えるために招かれるのです。信徒が構成者ではありません。

3.「見える教会、見えない教会」という思想は、カルヴァン(1509-1564年 フランスの宗教改革者)です。見える教会は「土の器」として、「見えない教会」(普遍的)・「信じるべき教会」に仕えるのが地上を旅行く教会の姿です。

「教会は……すべてのものをすべてのものの中に満たす方の充満である」(岩波書店 新約聖書翻訳委員会訳 2004、エフェソの信徒への手紙 1:23)

「充満」(プレローマ)とは「教会を愛してそのためにご自身をささげられた、キリストの愛の事」(真山光彌)です。一人一人が自覚をもって、自分の事として教会に仕えるものになるよう祈り求めてまいりましょう。

 この教会も「見えない教会」につながっています。

(サイト記)上記の「岩波書店 新約聖書翻訳委員会訳 2004」訳については、原文が手元にないため、引用が正確かどうかを確認できていません。

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