2014.2.16、明治学院教会(328)降誕節 ⑧
(配布「聴き手のために」はPDFで掲載)

(明治学院教会牧師、牧師退任1ヶ月前、健作さん80歳)
ルカによる福音書 13章6−9節、ハバクク書 3章17-19節
「実のならないいちじくの木」のたとえ(新共同訳 ルカ 13:6-9)
そして、イエスは次のたとえを話された。
「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
1. 新聞の「発言」欄に、ある高校生の「不登校しても自殺しないで」という投書が出ていた。
「いじめが原因で自殺する10代が増えている。……無理して学校へ行くよりも、とりあえずは、ともかく生きていてほしいと私は願う」(東京新聞 2014年2月12日)。
きっと、差し迫った危機にある友人か兄弟を抱えているのであろう。
「命の問題」は「とりあえず」対処しなければならないことが多い。大上段の教育論や「お説教」などはここでは無用である。
2. 今日の聖書テキストはイエスの譬え話「実のならないいちじく」の話。イエスの時代これとよく似た民話が流布していた。そこでは木は切り倒されてしまう。イエスはこの民話を下敷きにして、その民話とは異なった結論を、あえて語った。いや「とりあえず」かも知れない。
3.パレスチナでは、ぶどう園に「いちじく」のような他の木も植えられていた。最初の3年間は成長する期間として期待され、猶予されたが、実を結ぶ見込みがない、土地をふさぐだけだ、と持ち主は考えた。いちじくは養分を良く吸う。ぶどうの木にも良くない(7節)。「肥料をやってみます」(8節)。いちじくの施肥は普通なされない。しかし、この園丁(職人)は、畑の経営、ぶどう園の利益よりも、目の前の植物の成長からものを考える思考を長年の人生で身に付けていた。職人気質でもある。
「イエスの物語る出来事はいずれの場合も生の模写である」(A.ユーリヒッヒァー)。
効率(お金)か、自然(命)か、単純に考えると、「いのち」からものを考えるという、極めて根本的な問題を含んでいる。
4.この譬えを、イエスの内面に踏み込んで関係づけて考える新約聖書学者がいる。
「神の国」を天の祝宴として把握していたのがイエス。「神の国」は天上では実現している。地上ではそうスンナリいかない。イエスの内なる現実と、実際の宣教の局所性との間にギャップがある。つまりこの譬えは、イエス自身の内側の不調和を垣間見させる(大貫隆)。
「とりあえず、木をぶった切るな」。
効率の思考を止めよ。通俗的・世俗的流れに乗った、したり顔の思考を止めよ。
「神の国」の到来を願い、祈り、「まず、待て」という命への思考への促しがある。
5.「いのち」とは神との関わりで保たれる人間の限りない尊厳である。最近の日本の安倍政治はいかに安易にその命を「ぶった切る」方向へと舵をきっていることか。原発再稼働・憲法9条のなし崩し、集団的自衛権。今、原発企業訴訟が起こされている(私も原告の一人に加わった)。
「脱原発」は命の軽視に対する闘いである。広島・長崎・福島の現実に本当に目を留めれば黙ってはいられない。
「慰安婦」問題。ユン・ミヒャン氏(韓国挺身隊問題対策協議会・常任理事)は、これは「命」の問題だ、とNHK籾井会長の「どこでもあった」発言に厳しく抗議している。命への暴力の行使について「切るな、まず、待て」との叫びを大事にしたい。
教会内のことにあえて引き寄せて考えれば「新しい教会像」は「命」(△でなく◯の在り方)に繋がっていないだろうか。提案を「切って」はならない。育つのを「まず、待とう」。


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