呼びかけ

エレミヤ書 36章1節-10節、テモテの手紙第二 4章1節-5節

2013.12.8 単立明治学院教会説教(第323回)
「今日の説教、聴き手のために」

「それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない」 

エレミヤ書 36章3節、36章7節

1、11月22日退院後、骨折した右足(10/17)は徐々に回復し先週末から少しは歩けるようになったが痛みが残り、長時間立っている事は難しい。今日も車椅子からの「呼びかけ」にさせていただく。聖書テキストは日本基督教団の聖書日課。テキストの選択はともすると「自分の言いたいこと」を聖書の言葉に託すという過ちを犯すことがある。その点「日課」は、向かい合うと、自分の考え・心情とは別に「他者性(自分本位が砕かれ、耳を傾けざるを得ない固有な性質)」を含む。他者性に向き合わないと、自分では結構まっとうだと思っても「自己中」になる。言葉の完結性の終息が「言が肉となって」(ヨハネ1:14)というクリスマスの真理だろう。待降臨は他者に向き合う道程(イエスの道)を、祈りつつ「待つ」季節である。

2、ユダの王ヨヤキム(口語聖書ではエホヤキム、前609-598年在位)は、初めはエジプト王パロ・ネコに従属し国民に重税を課してそれを献上したが、バビロン王ネブカドレツァルがエジプト王ネコを破った後はバビロンに貢を収めた(しかし彼はすぐ反乱を起こして、バビロンに攻め込まれた【第一回バビロン捕囚】)。ヨヤキムの治世は罪悪に満ちたものであり(聖書事典)、預言者エレミヤは彼を厳しく批判した。ヨヤキムはエレミヤが弟子バルクによって記述させた「主の言葉」の「巻物」を炉に投げ込んで焼き捨てた(36:20-31)。この「巻物」は後また書き直された(大変な努力)。その中心はエレミヤ書 25章3-13節(特に8-9節)。エレミヤはネブカドレツァルを「神のしもベ」と表現し、彼によってヨヤキムが殺されることを預言した。事実彼は殺された。

3、エレミヤ書 36章の「預言の巻物」はヨヤキムとその体制「ユダの家」に対する神の審判の言葉である。しかし、それは審判の一方的宣告ではない。第1点。「それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない」(3節、7節) と言われている。立ち帰る可期性のある人格として「呼びかけ」がなされている。第2点。「神殿に集まった人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい」は、神殿関係者(国の政治・宗教責任者)だけではなく、「全ての人々に」向けて呼びかけられているということだ。この事に注目したい。「立ち帰る」のは民衆一人一人の責任なのだ。

4、神に裁かれねばならないのは王を頂点とする力の権力によって構造化されている人間の縦関係である。これを打ち砕くのには上の上をゆくパピロンが「神のしもべ」として用いられること。しかし、バビロンもペルシャ帝国によって滅ぼされる。神が語りかけるのは、一人一人が応答性を持つ「すべての人々」である。「ユダの家」の一人一人は「呼びかけ」への責任を持つ。主(神)といえどもその「応答性」を自由に操作はできない。「応答性」が息づく事を期待して、「呼びかけ」をするのが神の「歴史の中での限界」である。審きが第一義ではない。この神のこの「限界」を担ってエレミヤは苦悩する。ミケランジェロは苦悩に満ちたエレミヤ像をヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画に描いた。

5、「特定秘密保護法」を安倍政権は強行可決した。この暴挙の日を忘れまい。私にはヨヤキムと重ねて映った。「民主主義の否定」「国のかたちを変えてはいけない」(東京新聞)。広島、名古屋、札幌など各地、首都圏でひるまない抗議の民衆の姿が目に焼き付いている。論説主幹山田哲夫氏は「権力監視、ひるまずに」と言論・報道を励ましている。我々は一人一人が神に「呼びかけられ」、尊い「応答性」を与えられている。権力のこの暴虐に屈せず生きて行きたい。