2013.7.14、明治学院教会(315)聖霊降臨節 ⑨
(単立明治学院教会牧師8年目、健作さん79歳)
創世記 12:1,3、ローマ 12:3-8
1.最近、同級生の牧師・矢島信一、入江清弘、難波巌、同世代の聖書学徒・木田献一、川端純四郎、杉原助などの訃報に立て続けに接した。
そんな中で関田寛雄氏(1928-)の健在(神奈川教区巡回教師、北村慈郎牧師を支援する会世話人代表など)には大いに励まされる。
関田氏の名著に『教会』がある(教団出版局 1978、1985 第5版)。
142ページの小著であるが、大学紛争当時、青山学院神学科の廃科の中で、「神学教師は、造反神学、闘争神学、雑神学を奉じ、学生を使って青学を解体に導こうとしている」とまで言われた中で、それへの返答の意味を込めて執筆されたという(同書 p.142)。
「キリスト教入門」の表題の如く信徒向けの教育的な穏やかな本で、教会の基本をよく説いている。
2.結びの言葉を引用しておきたい。(同書 p.128)
以上我々は「教会」とは何か、について学んで来たが、教会とは一言でいえば歴史における神の救いの働きに参与する、キリストを信ずる者の共同体である。これはまことに神の恵みにより創設された団体であり、それに参加せしめられる事は限りない喜びである。欠点や弱点を含みつつも、そこはまた与えられた使命に生きる、尽きない感謝のあるところでもある。我々はこの教会に責任的に関わる事によってのみ、教会の何であるかを最も良く知る事であろう。教会の弱さについての躓きを越えて、キリストと共に彼の「重荷」を負う者は幸いである(マタイ 11:28-30)。
「教会の弱さについての躓きを越えて」などという所など、なかなか味わい深い言葉である。
3.今日は、聖書テキストは、ローマの信徒への手紙の12章の冒頭の言葉を選んだ。
ローマ書は1章から11章まで諄々と福音の本質(「神の義」「神からの救いの関係」「イエス・キリストの出来事」等)が説かれてきた。
12章から、その基礎に基づいてキリスト者の生き方が説かれている。
1-2節は、縦関係・神との関係(「礼拝」)であり、3-8節は横関係・人との関係(「教会の生活」)である。
今日は特に3-4節に重点を置いて読みたい。
「慎み深く」はアリストテレス(古代ギリシアの哲学者)の4大美徳の一つ、それを借りて初代教会の熱狂主義への戒めが語られている。
現代の熱狂主義とは何か。
自己相対化の視座を失った思考と振る舞いであろう。
「あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません」(ローマ 12:3、新共同訳)
「問題は信仰が神からの賜物であることを忘れ、個人の所有や力量として評価されるようなことがあってはならない」(「新約聖書略解」高橋敬基、p.417)。
4.「私たちは一つ体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていない」(コリント第二 12:11-26参照)。
異なった部分によって活かされていることの自覚は「キリストにある(神からの選びと贖い)共同体」の基本である。
「教会はキリストの体」。この表現はパウロ後文書に出てくる(エペソ1:23、コロサイ1:24)。パウロは若い初代教会を育てるのに苦労した。いつの時代も成熟した教会への道程には幾多の苦難がある。恵みを信じて乗り越えてゆきたい。
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