2012.4.25、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「現代社会に生きる聖書の言葉」第34回、「新約聖書ヨハネ福音書の言葉から」①
(明治学院教会牧師 健作さん78歳)
ヨハネ福音書 1章1節―5節
1.新約聖書には「福音書」が四つある。このうちマタイ、マルコ、ルカは「共観福音書」と言って「マルコ」と「Q(イエス語録集)」の二つの資料を基に成り立っているので、観点(見方)が似ているので「共観」の名をつけてまとめられている。
ヨハネ福音書は「福音書」の形式を文書全体の基本的枠組みとしている点で、マルコの文学形式を間接的に前提としている。受難物語の部分はルカ福音書との並行が顕著である。しかし、他の部分では著者独自のルートで手に入れたイエス伝承が多く用いられている。
神学的には(信仰の関心事)、共観福音書とはかなりの違いがある。共観福音書では、イエスの「神の国」とユダヤ教のモーセの律法との関係を巡っての関心が強かったが、それはずーっと後退して「イエスとは誰であるか」というキリスト論が前面に出ている。イエス自身のこのことに関して長い長い講話(13章〜17章)を入れて、イエスに語らせる文学手法はこの福音書独特である。
2.さて、今回、この書簡を取り上げたのは、ヨハネ福音書全般を学ぼうという訳ではなく、この福音書が用いている文学的手法、ある「象徴」を用いてイエス自身を言い表している点が顕著であるので、その「象徴」を幾つか取り上げることで、福音書に親しみを持っていただくことにする。

「世の罪を取り除く神の子羊だ」(1:29)
「わたしはいのちのパンである」(6:48)
「わたしは世の光である」(8:28)
「わたしはよい羊飼いである」(10:14)
「わたしはまことのぶどうの木」(15:1)

3.ここでは伝達の問題がある。ある出来事、真理、相手に伝えるのに、いろいろな方法がある。三つに大きく分けて考えてみた。
① 説明言語。ある事柄を客観的に説明、叙述するやり方はごく普通に用いられる。丁寧な説明もあり、飛躍した説明もある。日常ほとんどが、この言語のやり取りで、成り立っている。
② 人格言語。これは語った主体が問題である。この主体が、人格的力をもち、聞く相手に感化を与える言語形式である。母親が子供に「いってらしゃい。気をつけてね」という場合、言葉は人格的力を持って、子どもについてくる。
③ 象徴言語。これはある象徴を持って、相手に内容を伝える方法である。恋人にプレゼントをする場合、そのプレゼントはこちらの心を象徴する。だから苦労するのである。ヨハネ福音書は、先に上げたような象徴で、イエスを現す。

4.「光」は聖書では、かなり用いられている。

小さな『コンコルダンス』で拾ってみたが57か所が上がっている。
「神は言われた。『光あれ。』」(創世記 1:3)
「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。」(詩編 4:6)
「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」(詩編 119:105)
「起きよ、光を放て。」(イザヤ 60:1)
「暗闇に住む民は大いなる光を見、死の陰に地に住む者に光が射し込んだ。」(マタイ 4:16)
「あなたがたは世の光である。」(マタイ 5:14)
「異邦人を照らす啓示の光、」(ルカ 2:32)
5.ヨハネは光の比喩が多い。箇所のみ上げる。
ヨハネ 1:4、1:5、1:8、1:9、3:19、5:35、8:12、9:5、12:35、12:36、12:46
11か所ある。これはすべてイエスを言い表している。つまり「光とはイエスである。
イエスを「光」という象徴で語っている。
光をイメージすることが出来る人はイエスとは誰かがイメージできる。ここが象徴言語の幅のあるところである。明るさ、速さ、目印、闇の対義語。光のイメージを大切にしたい。
6.「光の子らしく歩みなさい」(エペソ 5:8)「あなた方はすべて光の子」(テサⅠ 5:5)などは、簡潔な教訓としてつかわれる。
キリスト者でなくとも「光」のイメージは明るく、暖かい。だが聖書では「キリスト論的」意味を持って言えることを覚えておきたい。
