コヘレト 3:1-11、フィリピ 4:2-7 “勧めの言葉”
2012.2.5、今日の説教、聴き手のために(262)、
明治学院教会、降誕節第7主日
(日本基督教団教師、単立明治学院教会牧師、岩井健作 78歳)
フィリピの信徒への手紙4章2節-7節
1.杞憂という言葉がある。
中国の杞の国の人が、天地が崩れて落ちるのを憂えたという故事に基づいている。将来のことについてあれこれと無用な心配をすることを言っている。
生まれつき苦労性で取り越し苦労の多い人はいるものだ。直せと言って治るものではない。と言って、ただ楽天家であればよいというものではない。
人は、必要に応じて、心配し、苦労し、それでいて、なおそれに縛られてしまわない「自由と希望」を求めて生きている。
2. 福音書の「山上の説教(マタイ6章25節-34節)」のイエスの言葉は、まさにそのことを言っている。
神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(食べること、着ること)はみな加えて与えられる。だから、明日のことまで悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ 6:33-34、新共同訳)
ここは「思い煩うな」がテーマであるが、これは「思い煩いの禁止」という倫理を語っているのではなくて、「思い煩わざるを得ない人間」に、その「ありのままの姿」を知らしめ、それを手がかりにして「神の義、神の愛、その存在、恵みの確かさ」への信頼をもたらして「思い煩わなくてもいいのだ」と「慰めと励まし」を与えていると理解した方がよさそうである。
3. フィリピの手紙の4章6節
どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いとをささげ、求めているものを神にうち明けなさい。(フィリピ 4:6、新共同訳)
は「恵みの確かさ」の徹底を促している。
「何事につけ」は細かいことを含めて「すべてのこと」という意味である。
他の言葉でいえば一つ一つの事柄を、区切って、覚えることで、生きることへの肯定を担保するのである。
4. リズムと二重性、生活の区切
『ロビンソン・クルーソー』(ダニエル・デフォー)は絶海の孤島にただ一人漂着して、絶望と再起不能と思える時、現実を、細かく区切って(プラス)(マイナス)、「肯定と否定」を重ねて捉えてゆく。
するとその中の肯定要素が自分を支えていることに気がつく。「不幸中の幸い」が見えてきます。
細かい単位で区切って捉えることで、息つく余地が出てくる。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることである。(テサロニケ第一 5:16-18、新共同訳)
と述べられている中で「キリスト・イエスにあって」が肝心なところです。
イエスの十字架の死(マイナス)と復活の命(プラス)が、区切られた個々の出来事に映し出されているに違いないからである。
「祈り」がその区切りの肯定要素へと導いてくれる方法として指示されている。
カトリックの祈祷書には109の生活の諸場面の祈りが記されている。
私家版『祈りのノート』を作るぐらいに、生活の区切りをはっきりさせる、ヒントを与えられた。