福音とは、即イエス(2012 礼拝説教)

2012.1.22 降誕節(5) イザヤ 61:1-4、マルコ1:9-15、明治学院教会(261)

明治学院教会牧師 78歳

1.「福音」とは「よい知らせ」という意味です。古代オリエント諸国では王の誕生、即位などを喜ぶ時に用いられました。現代でも新しい医療の開発など、患者への福音だ、等と用いられます。初代教会はこれをキリスト教用語とすることで、皇帝礼拝と別な価値観を宣言いたしました。初代教会は「福音」をどのように捉えていたでしょうか。パウロは、すでに当時の教会の人々が知っている「福音」の再確認をしています。

「すなわち、キリストが聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、……また三日目に復活したこと」(Ⅰコリント 15:3-4)

「この福音は……御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」(ローマ1:3以下)と表現され、また「律法」と「福音」との対比という展開もされています。ここは聖書(特にローマ3章以下)を少し学んでいただくと「福音」の理解が深まります。

2.さて、日本では1970年以降「福音派」とか「社会派」などという使い方が流行しました。どう考えても「レッテル貼り」なのですが、福音理解を「キリストの十字架は人間の罪の贖い」という贖罪論に集中させていくのが前者、福音による生を愛の実践・社会での共生まで含めて考えるのが後者、ということになっています。今もってその亀裂は癒し難く存在しています。

3.マルコ福音書の「福音」の捉え方は、初期教会のように「福音とは……」と文言でまとめる信条化(packaged message)の方向にではなく、イエスという方との出会いの諸出来事そのものなのだ(matter of encounter)という方向にもっていきました。それがイエスとの出会いを語る「福音書文学」という形式です。

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」(1:1)という語り口で始めて16章に至るのです。だから、そこには「わたしはこうイエスに出会った」という個別な「奇跡物語」がたくさん収録されています。当時の人々が交わらなかった被差別者、障害者、子供などとイエスは交わったという物語、当時権力の座にあった律法学者らとの喧嘩も収録されています。イエスの言説もその聴衆や光景と一緒に語られています。

4.マルコでは「福音」と「イエス」が並置されています。「わたしのためまた福音のために」(8:35、10:29)という表現です。ここには「福音」は、まとめられないイエスの生涯と振る舞いの全ての出来事なのだという主張があります。まとめるということは大事です。でも、まとめられないということも大事です。後者を主張するのがマルコです。よく話題になるエピソードをまた繰り返すのですが、J.D.デイヴィス宣教師(1838-1910 同志社教授)の遺言が”My Life is My Message”であったことは有名な話です。彼の生涯全てがまとめられない遺言なのです。

 私たちにとっても、イエスに従う決断をして、イエスの後に従い、イエスを見失い、イエスを裏切り、イエスに叱責され、イエスに驚き、生きる全てが「福音」なのではないでしょうか。

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