クリスマスの二つの面(2011 幼稚園・父母の会)

2011.12.1(木)10時−11時、幼稚園父母の会「クリスマス準備会お話」
(幼稚園名は現在不明m(_ _)m)

(明治学院教会牧師、78歳)

聖書 ヨハネの手紙一 4章7節−12節

はじめに.

 今日のわたしのお役目は、キリスト教をその設立の精神に掲げている幼稚園の保護者の皆さんに「キリスト教というもの」を分かりやすくお話しするという事だと思っています。まず、キリスト教には二つの面があるという事です。

 一つは「教え」という事です。もう一つは「出会い」という事です。


1.第一の「教え」には、幾つもの教え(つまり複数)があります。だから「教え方」も「学び方」もたくさんあります。

 今日、お読みした聖書の「ヨハネの手紙一 4章7節-12節」は「愛」という言葉を中心にしてキリスト教の事を、丁寧に教えている「教え」です。

 一つのまとまりをなしています。こういう教えが「聖書」の中には幾つも、たくさんあります。たくさんと言ったのはいろいろ違った説明の仕方、ある場合には、逆のことをいっている「逆説」もあります。こういう教えは、こつこつと学ぶ以外にありません。

「教会」というものの働きの一つはこの教えを年月を掛けて、丁寧に、一人でではなく、いろいろな人が一緒に学ぶところです。だから「教会」には卒業がありません。では、何で「教え」を学ぶことが大事かというと、第二にの事柄を十分に活かす為なのです。

2.では第二の事柄とは何かというと、それは「出会い」です。

「出会い」とは何かというと、人間というものは(つまり「わたしは」)、相手との関係のなかで、初めて人間であり「わたし」である、ということです。

 そのことをよく描いた絵本に谷川俊太郎の『わたし』という作品があります。わたしは周りの人との関係で「わたし」なのだということがよく描かれています。

 関係ということは、形の上での言い方ですが、それを内容的に言い換えますと、キリスト教では、あるいは聖書では「愛」という言葉を用います。

「愛」と「関係」とは一つの事柄を内側からと外側から言い表した言葉です。

 先程読んだ、ヨハネの手紙一の4章7節以下の「愛」を「関係」と読み直してみて下さい。「愛する者」「関係に生きる者」と。

ヨハネの手紙一 4:7-12(新共同訳 見出し「神の愛」)
 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
 神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

2.さて、ここでわたしの経験を少し申し上げましょう。第一の「教えを学ぶ」ことにおいては、教会に小さい時から行き続け、さらにキリスト教の教えを学ぶ神学校にもゆきました。人生のもう私は夕方ですが、まだまだ、教えの山の裾野に立ちすくみながら、一生懸命学んでいます。

 しかし、第二の「出会い」については、僕が求めてというより、向こうから沢山の出会いがやってきたのでした。沢山の「出会い」の経験しています。例えば一人の障害児が出会ってくれたと言って良いでしょう。それを糸口として始まるいろいろな出会いを今でも大切にしています。

 僕を子どもの世界に連れ込んだのは「金森康明君」でした。
 この子が3歳児の時、ちょっと遅れがあるなと感じていました。お母さんはみんなについて行けないと幼稚園を退園させました。彼のことをすっかり忘れていたある夏休みの午後、幼稚園の門がギーッと開いて、白いパラソルと子供が入って来ました。「こんにちは」と玄関でご挨拶をした瞬間、記憶がよみがえりました。「なんだ、康明くんじゃないの」。お母さんの話ですと、あれから2年間、小児科医、精神科医、教育相談所などありとあらゆるところを回ったそうです。心理学者の大学の教授・平井信義先生のお勧めで、康明君は、同年齢のお友達の中で育てるのが一番よい、ということで舞い戻って来たとのことでした。当の康明くんは、もう牧師館の応接間のピアノの上に座り込んでメトロノームをカチャカチャと黙って手で動かして遊んでいます。目が合わない、かなりの多動の情緒障碍です。その頃まだ「自閉症」などという用語は幼稚園の現場にはありませんでした。統合保育のことなどをおぼろげに知っていた気のいい「牧師・園長」は「お預かり致しましょう」と返事をしてしまいました。でも目算はありました。K教諭がいるからと。

 夏の研修から戻ってきた教師たちと相談会をしました。肝心のK教諭は予期に反して、「そんな難しい保育は私たちにはできません。園長先生がお預かりになったのだから、園長先生がおやりになったらいい」とケロリとしています。9月、とにかく自由遊びの時間だけ、お母さんがそーっと陰で見ていることで登園していただきました。

 園は大混乱です。靴箱の靴は散乱。ちょっと目を離した隙に印刷室ではインクベタベタ。トイレはペーパーの山。2週間ぐらい一人で悪戦苦闘をしました。

 見るに見兼ねたK教諭は私のクラスでお預かりしましょうとのこと。ただし条件があります。園長先生が「けんさくちゃん」として「やすあきちゃん」と一緒にクラス入ってください。

「今日から二人新しいお友達がきました」。「なんだ、園長やんか」。「いいえ、ここでは、やすあきちゃんのおともだちのけんさくちゃんです」。年長「菊組」さんは大混乱です。でも混乱のうちにも、少しづづ「統合保育」なるものは進みました。

 案の定、他のお母さんたちからは大文句です。大切な就学前の時期、障碍児が一緒では遅れてしまう。「けんさくちゃん」は「統合保育」の意味を何とか説得しました。この間しばらく、教会の仕事が滞りなく出来るという訳ではありませんでした。役員会でそのことを話すと、障碍児のお世話は牧会の一つだから専念してください。ほかの所は我々が補いますからとお励ましの言葉、本当におおきな力でした。

 さて、やすあき君ですが、1月ごろから様子がおかしくなりました。お母さんが、焦って家で勉強の学習機を使っていたのです。康明くんは、康明くんなりに精一杯成長しているし、他と比べないで、暖かく包んでと、ある日の午後、しんみりとお母さんにお話をしました。「北風と太陽」のお話をしました。黙って聞いていたお母さんは、そのうち大粒の涙を止めどなく流しはじめられました。はっと気が付くと、北風は自分なんだとひしひしと胸に迫りました。

 遠洋航路の航海士の夫とは普段相談もままならず、障碍児を抱えた将来への不安。周囲の差別の目。私の祈りが続きました。でも3月、卒園式の証書授与では康明くんの「ハーイッ!」という真剣なご返事に、参列者は大変な拍手でした。

 やがてお母さんも「情緒障碍児の親の会」の仲間にも入ることができて、次のステップに進んで行かれました。気が付いて見ると、康明くんと出会ったことが、子どもの世界への手引きでした。42年間、いくつかの教会付属幼稚園の園長を務めさせて戴き、子供への驚きをたくさん経験いたしました。

3.お母さん方は、皆さんは「子供との出会い」の経験をたくさん持っておられると思います。その経験を大事にして下さい。その経験の中にすでにイエス様はおられるのです。

 キリスト教はなぜ「クリスマス」を大切にするのでしょうか。それは、イエス様について学ぶよりも「出会い」の時なのです。

 それは、キリスト教の<信仰>にとって大事なのは「出会い」ということだからです。

 人間はそれぞれが、自分本意で、自分中心で相手とぶつかります。これが極端になると、殺人、虐殺、戦争、独裁というようなことになります。

 本来、人間は助け合って生きて行くべきものでした(自己相対化の視座の必要)。聖書ではそれを「創造者によって造られたものだ」と理解しました。聖書の「被造性信仰」です。

 自分が中心ではないのです。しかし、そのようには生きられないで、自分本意の存在であることを「罪(的はずれ)」として自覚しました。が、そこから脱出する力が自力ではありませんでした。その人間の罪と共にあり、それを負い、赦し、贖い、本来の人間への立ち返り(救済)をもたらす方を待望しました。

「その方」が神の側からの「恵み」として遣わされ、人間に「出会われた」のだ。実は、それがナザレのイエスであった、というのが聖書の信仰です。

 イエスは「人となり給ひし神」「人と“出会われた”神」「イエス・キリスト(イエスは救い主)の姿での神」という信仰がもとになってキリスト教が誕生しました。イエスの誕生を覚えるクリスマスは、歴史の中での神が人と「出会われた日」という意味を持っています。それを教会暦は中心に据えたのです(マスはミサ、カトリックの聖餐式の意味)。そして、西欧文化の地域では、季節の祭りとして祝われています。(日本でも習俗化して、教会でもクリスマスをやるのですか、というエピソードまで生まれました)。アドベント(待降節)は、クリスマスの4週前から降誕を待つ暦の時です。

4.さて、次に「出会い」はどのようにして起きるのでしょうか。

 これが分からないと「キリスト教」つまり「神との出会い」「福音」が分かりません。「出会い」とは、コミュニケーション(伝達)が成り立つことです。恋人や心を許せる友人のことを考えてください。

「一緒にいること」(人格言語)、「言葉でやり取りすること」(説明言語)「ものを媒介にして心を交わすこと(プレゼントなど)」(象徴言語)。

 この三つの言語表現の伝達の豊かさが「出会い」です。福音書に

「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2:12 新共同訳)

 とあります。乳飲み子イエスは神の象徴言語なのです。

5.その「出会い」を待つのがアドベントです。

「待つ」時間の緊張を味わったことがあるでしょう。親しい友人から何年ぶりかの来訪が約束されました。家の片付け、食事の支度、飛び切り上等な「お酒(ワイン)」。いよいよ駅に迎えに行きます。予定の電車に乗っていません。どうしたのかな。迷ったのかな。乗換え前の路線の「人身事故」かな。次も次も降りてきません。心配です。その待つ気持ちは、友人との関係、「出会い」の喜びを一層大きくします。「来ました。来ました」。

 今年は暗い世の中です。「3.11(東日本大震災 2011.3.11)」で苦悩の底にいる人達がいます。

『野田内閣「原発再稼働」「増税へ一直線」「TPP交渉」「武器輸出禁止3原則の見直し」、つまりアメリカ追従路線ひた走り』(東京新聞 10/25)です。

 財界にはよくても、格差是正を求め平和を願う庶民、特に保育園に通う子供たちには厳しい世の中です。

 貧しいものと共にあるイエスの来臨を心の灯として、待ち望みたいと思います。