2011年1月2日、降誕節第2主日、
明治学院教会(216)新年礼拝
(明治学院教会牧師 6年目、牧会52年、健作さん77歳)
ヨナ書 1:1-10、説教題「計画」岩井健作
1.年初めにヨナ書をご一緒に読みたいと存じます。
この物語にはいろいろなモチーフがあります。
一応の「ヨナ書解題(書物の由来)」は次ページに記しました。
今日は1節の「主の言葉が……臨んだ」に焦点を当てます。
”主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。”(ヨナ書 1:1、新共同訳)
実は「それがそうすんなりとは行かないのが現実というものなのだ」とこの物語は語っています。
結論から言うと、この物語では「神の言葉」は結果的にアッシリアのニネベの人々に及びます。
しかし、それまでには幾つかの経過があります。
① ヨナのタルシシュへの逃亡。
② 船が嵐に遭遇する。乗船者や乗組員の対処とヨナの自覚。
③ ヨナへの神の救助の手。大魚の腹の中のヨナの祈り。
④ 再びヨナへの「神の命令」。
⑤ ニネベでのヨナの宣教。
⑥ 神の、民族を超えた普遍的慈しみと「災い」の思い返し。
⑦ 神の慈しみへの理解へとヨナを導いた「とうごまの木」の経験。
これらの経過の全体を含んで「神の言葉」は「臨む」のです。
2.ヨナは預言者の一人です。
専門家です。
「神の言葉」とは何かを、知り尽くしている人間です。
「わたしはヘブライ人」(9節)と言い切ります。
律法を熟知し、神の選びの民に属する自負があります。
「天地創造の神」を信じる者です。
何故、タルシシュに逃亡したのでしょうか。
それは、ニネベへの託宣の非現実性(排他的主義観念から見た)が彼の信念にはあったからです。
彼の宗教には「外国ニネベの救済」は含まれていないのです。
その正統主義はいつの間にか「タルシシュに向かう(逃亡する)」ほどにまで固まっていたのです。
タルシシュの街は、今のスペイン南西海岸、交易・商業の盛んな富める街。
神の言葉とは「対極」のイメージを持っています。
民主主義を選んでいるのに、結果がファシズムであるような事柄なのです。
政治家が政治をダメにしているようなものです。
宮田光雄氏(東北大学教授、『キリスト教と笑い』岩波新書 2002)はそこにヨナの滑稽さを読みます。
しかし、これは単にヨナの問題では済まされないでしょう。
預言者の時代は「神の言葉」の独自性(他の宗教に呑まれない、人格的選びの固有性)が叫ばれました。
しかし、それが排他性としてしか作用しない状況での見直しができていないのです。
3.この「見直し・捉え直し」の問題は、「口と手足」「頭と体」「言葉と実践」「理念と現実」「教義と歴史」「信仰と生活」の乖離(背き離れる)につきまとう問題でもあります。
理念は、現実への実践で意味あるものとなります。
神は細部に宿り給う、「言葉は肉体となって」(ヨハネ 1:14)、神は「へりくだって、死にいたるまで、十字架の死にいたるまで従順で」いまし給う(フィリピ 2:8)。
神の計画には、この一貫性が貫かれていることに注目する必要があります。
紆余曲折を経ても、ここが貫かれているのがヨナ物語のメッセージです。
私たちの内に働く「神の言葉」も、このように働くことを信じて、この年を歩みたいと思います。
逃亡しても、そこを試練として捉え直しを迫る神に、依り頼んで行きたいと思います。
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