2009年を送る(2009 礼拝説教・年末礼拝)

2009.12.27、明治学院教会(177)降誕節 ②

(明治学院教会牧師 5年目、牧会51年、健作さん76歳)

テサロニケの信徒への手紙 第一 5:16-24

1.以下は、日本経済新聞歌壇 2009年12月20日、岡井隆選 2009年秀作の一つ。

 混迷の世を憤る夫のこゑ聞きつつ南瓜あまくあまく煮る

 かなり年配の夫婦の暮れの一コマであろう。

「憤る」ことが出来る人はまだよい。

 職なく、住なく、路上に身を晒している人の現実が、心に疼く歳の瀬である。


 内橋克人さん(経済評論家)は2009年の特質を次の三つに捉えてラジオの「ビジネス探訪」で訴えていた。

 ① 高度失業化社会(有能者まで職を失う)
 ② どん底に向かう競争(デフレ•スパイラル)
 ③ 不均衡社会(格差の拡大•固定)

 私たちの身近なところに及んでいる「時」の実相である。

 現にこのことのゆえに教会の礼拝に出られない方がいる。

2.住宅街の学園の教会にも、扉を叩くように、支援要請の通信物は年末年始の炊き出しや越冬行動を含めて、例えば、寿町・山谷・釜ヶ崎・長田などの先端(フロント)のキリスト教の働きから情報として来ている。

 とりあえずは、情報をしかと記憶に受けとめること、そして祈ること、この季節に寄せられたクリスマスの献金を心して捧げること、などを心がけたいと思っている。

 12月27日は、昨年パレスチナ•ガザ地区にイスラエルが侵攻して虐殺を行った日であるので、先週クリスマス説教で触れた「ヘロデの虐殺」の現代版に気が付き、「クリスマス/パレスチナを忘れない」の特集をしている『婦人新報』を10冊ほど取り寄せ、紹介することにした。

 2009年を送る、私のささやかな思い付きに過ぎないのではあるが。

3.「2009年を送る」

 年末礼拝のテキストを「テサロニケの信徒への手紙 第一」から選んだ。

 新約聖書では最も早い文書である。

 紀元50年ごろ、パウロが第二伝道旅行に際して執筆した。

 切迫した終末思想が背景にあって、動揺する者たちを諫め、励ました書簡である(4:13以下)。

 5章の特徴は、危機の自覚の大切さを促していることである。以下は3節。

”人々が「無事だ、安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。”(Ⅰテサロニケ 5:3、新共同訳)

 危機の中だからこそ、「目を覚まし、身を慎んで(シラフで)」(4:6)と戒められている。

 ここは、文語訳の響きが忘れられないところである。

常に喜べ、絶えず祈れ、凡てのことに感謝せよ。”
(Ⅰテサロニケ 5:16-18、文語訳)

”いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。”(Ⅰテサロニケ 5:16-18、新共同訳)

 危機であればこそ、日常の繰り返し、習慣の時間を生きることの大切さが説かれている。

 23節の「全く聖なる者としてくださいますように」の「全く」は質的な意味か、量的な意味かの議論がある。

 田川建三は「全体として聖く」と量的にとる。青野太潮は「完全な者として聖めて」と質的に訳す(岩波書店訳)。

「常に、絶えず、凡て」は、量的な表現であるから、パウロの祈りも神ご自身の働きが、私たちの精進と相まって、段々と働くという量的な意味にとった方が良い、と私には思える。

「イエス・キリストが来られるとき」(23節)は「来臨」(青野・田川)と術語で訳されるべきか。

 いずれにせよ、この書簡は差し迫った終末的危機感と備えをする日常の倫理の一体感がある。

 それは、間近な大地震に備える危機と日常との緊張関係のようなものである。

 年末というのは、歴史の危機感と日常の捉え直しとが、渾然一体なる季節である。

”あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。”(Ⅰテサロニケ 5:24、新共同訳)

 この言葉の中に身をおいて歳を送りたい。



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