”主の祈り”を祈る(2008 礼拝説教・マタイ)

2008.6.29、明治学院教会(119)聖霊降臨節 ⑧

(単立明治学院教会牧師 4年目、健作さん74歳)

マタイ 6:5-15

1.「主の祈り」(讃美歌54年版564、讃美歌21-93参照)は、「福音全体の要約である」(テルトゥリアヌス)と言われ、また形骸化しやすいことについて「最大の殉教者」(マルチン・ルター)だとも言われました。

 水や空気のように、それが欠乏して自覚されるような存在です。

2.「主の祈り」の持つ意味を二つの方向で考えてみます。

(1)第一は、繰り返し祈ることで身に付くことです。「信仰の生活化」です。イエスは「アッバ」(”お父さん”の幼児語)を使い、御名が崇められるように、御国が来ますように、今日食べるパンをください、という単純な願いで祈りました。弟子たちはこの祈りを、繰り返し真似ることで身に付けました。真似ることの肯定的な意味を、多田道太郎さんは『しぐさの文化史』で説いています。真似ることは文化の深い基盤なのです。

(2)第二は、「天の父よ」という呼びかけが、「生活を信仰へ」と導きます。確かに「本当には祈れない」という呟き(つぶやき)と自省はあります。その時こそ「”霊”のうめきによる執り成し」(ローマ 8:26)を信じて祈ることで、祈りは奇しくも成り立っています。

 自己完結(自分本位)へと絶えず傾斜する生活を破るのが「祈りの力」です。

 自己を閉ざす生活を、自己を開く生活へと変化させるところに「生活の信仰化」があります。しかし、その祈りも常に形式化・形骸化します。これをさらに破ること、他の言葉で言えば、人間を”関係存在”へと再自覚させるのが、うめきを伴った”執り成しの恵み”です。

3.「主の祈り」の原型は、聖書ではマタイ6:9-13、ルカ11:2-4です。

 ルカ本文のものが最古層の伝承に近いことは定説です。

 マタイは、この祈りを「山上の説教」の中に組み入れ、「施し・祈り・断食」(6:2-8)を説いた生活綱領文の一部としました。

 ルカは、熱心に求めることを主題にした説話の序説的位置付けに持ってきました。

 マタイ10章後半の「御心が行われますように(受動態の命令形)、天におけるように地の上にも」は、マタイにのみあります。

 地のことがマタイは気になります。「義」の実現は、神が主体でありつつ、地上の器を通して行われるのです。

「赦しましたように」(マタイ)と「赦しますから」(ルカ)の違いも、マタイは地上の経験に軸足を置きます(現行使用の祈祷文は、1880年訳は”ルカ”、日本キリスト教協議会統一訳は”マタイ”)。

 マタイの教会は、紀元80年代にユダヤ教からの迫害に耐えていました。

 自分たちの地上の営みは、たとえ小さく、拙くとも、それを他にして神の国が来るのではなく、「私たちが人を赦した」というあの小さな出来事に「神の国の実現は宿っているのだ」という信仰が滲(にじ)んでいます。

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