ヤイロの娘を生き返らせる(2009 小磯良平 ㉑)

2008.5.6、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 小磯良平の聖書のさし絵から聖書を学ぶ」㉑

(明治学院教会牧師、健作さん75歳、『聖書の風景 − 小磯良平の聖書挿絵』出版10年前)

マタイ 9:18-26、マルコ 5:21-43、ルカ 8:40-56

1.小磯さんの「ヤイロの娘を生き返らせる」という絵の印象は、少女が立ち上がった瞬間の驚きがよく描けている。

 それぞれの人物の手が驚きを表している。両親は、母が立ち上がった娘を拝むような手、父親の娘を受容しイエスに差し出すような手、イエスの娘を包むように広げられた手、それぞれが命をいとおしむ手の表情をもつ。

 光源は一方は棚の灯であろうか。入り口の外の間接光と重なって柔らかい雰囲気を出し、立体感を出しているところなど小磯さんらしいタッチを感じる。少女のあどけなさは、子どもを神の国の比喩にしたイエスの言葉(マルコ10:14)を連想させる。

2.絵のテーマは「ヤイロの娘」のお話だが、テキストは「出血が止まらない女」の話(マルコ5:25-34)が割り込むように入り、二つが合わさって一つの物語を構成している。これはマルコの文学的手法で、同時進行が話の緊張を高める。       

 なお福音書に同じ話が三つある場合は、もともとはマルコが最初にあったと考えるのが二資料説(マルコとイエスの語録集”Q”の二つの資料があって、それを元にマタイ、ルカが成立したという福音書の成り立ちについての基礎的な学説)の定説。

 読んでみるとマルコが一番長い。マタイはこれを細部で省略してしまっている(マルコ383語、マタイ137語)ルカはわりと忠実にマルコを再現しているが、肝心な省略がある(「タリタ、クム」、12歳、三人の者たちだけを連れて、等)。これは、関心と強調点の違いであろう。マタイはより一般化を進める。「このうわさはその地方一帯にひろまった」(9:26:マタイのみ)と結論づける。

3.マルコの「ヤイロの娘」の話には典型的な奇跡物語の様式がある。

① 奇跡が隠れて行われる(マルコ 5:37、5:40) 。娘の奇跡の現場へは、三人の弟子のみが同行を許される(マルコは2回も強調する)。

② 異語(ここではアラム語)が異能を発揮する動機(5:41)。手をとり、「タリタ、クム」とアラム語で言い「娘よ(タリタ)、起きよ(クーム)」とその意味付けをするのはマルコのみ。ルカは手と「娘よ、起きなさい」とのみ記す。マタイは「手をとる」のみ。

③ 結果を秘密のうちに保つ動機(5:43)。マタイはこの三つの動機を省いてしまっている。奇跡物語としての強調よりも、イエスの宣教活動の進展の物語の一コマとなっている。

4.マルコは故郷ナザレのイエスへの不信仰(6:5-6)に対比して、奇跡の前提としての「信仰」を強調している。しかし「信仰」という訳よりも、治癒者イエスに対する全幅の信頼を寄せる意味なのだから「あなたの信頼が」(5:34)がよいと訳すのは田川建三。この語の基本の語義だと言う(田川訳注)。田川は、”ピスティス”を何が何でも「信仰」と訳さねば気が済まない、宗教改革以後の翻訳を批判している(特にガラテヤ5:6)。

5.治癒奇跡では一体、何が起こったのか。

 また何をメッセージとして伝えているのか。それを現代人が納得するにはどのように解釈すればよいのか、という問題が、聖書の奇跡物語にはいつも付きまとう。

 一つは、病気の社会的・宗教的な呪縛からの全人的な解放がイエスの人格との関係によって起こり、人間性の取り戻しが実現したことであろう。それは「治る(Cure)」よりも「癒し(Heal)」を意味している。その結果、人間に本来備えられている自然あるいは内的治癒力が十分に働き、ある結果をもたらしていることもあろう。そもそも治癒物語は病気や病人を客観化・対象化して理解しようとする、理解の仕方を問うている。当事者間の人格関係での出来事なのである。

「癒しは、それを求める人々に対して、救いの業として、また神の業として全うされる。これが私たちに与えられたメッセージである」

 とは現代の第一線の医師(川越厚、東京大学講師、茨城県中央病院産婦人科部長)の言葉である(川越厚「治癒者イエス」『人間イエスをめぐって』所載、日本基督教団出版局 1998)。

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洋画家・小磯良平の聖書のさし絵から聖書を学ぶ

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