”人格的感化”の連鎖を(2008 礼拝説教・詩編121)

2008.5.18、明治学院教会 創立5周年礼拝、聖霊降臨節 ②

明治学院教会通信 2008.5.25号「切り株」第5号所収

(単立明治学院教会牧師 4年目、健作さん74歳)

詩編121編1-8節

わが助けは天地をつくりたまえる主よりきたる” (詩編121編2節、文語訳)

 よい意味での「人格的感化」がこの学院には生きている。学生はそのことを期待して応募・入学する。学院関係者、理事・評議員、教員、職員のバイタリティーの根源はそこにあるに違いない。ある卒業生の言葉はそれを示す。

「多様な価値観や幅広い知識を知り、自分自身の考え方や知識の幅を広げることが出来、多くの経験を積む事が出来ました。この4年間での多くの人との出会いに感謝し、これからも人と人との出会いを大切にしていきたいと思っています。」「先生へ。感情表現が下手な自分ですが、思慮深く、しかもフランクに向き合ってもらえたことでどれだけすくわれたことか」(『白金通信』No.445, 2008.3)。

「出会い」は人格形成の深奥な出来事である。そしてまた「出会い」は「キリスト教主義教育」を標榜する「学院」の骨格に属することである。その「学院」の名を冠した「教会」も創立5年を経た。学院全般の「人格的感化」が教育、研究、文化、交流などに潜在化していることに対して、教会は明確に、「人格的感化」の根源である「神との出会い」「イエスとの出会い」を、聖書に基づいて、顕在化した言葉で説く。この潜在と顕在との関連は「合意書」(2006年9月締結、2007年11月「学院広報」に掲載)で、「教会は……福音宣教の活動を通じて学院のキリスト教主義教育の推進に貢献する……」と明文化されている。留意しておくべきことがある。「キリスト教主義教育」は「布教」ではない。しかし、意外と世間の、あるいは直接学院関係者が無意識のなかに、「キリスト教」と「布教」とを等置し、「君子危うきに近寄らず」と、聖書の真意までも等閑視する人が多い。これは、現実の、あるいは歴史の、「キリスト教」なるものの貴任に帰する部分が少なくない。しかし、あらゆる意味での「よき人格的感化」「人格的出会い」は、根源的に「人間の尊厳」に関わるものであることを、「明治学院」がトータルな意味で発信していることは、大方の世間が認知していることであろう。「よき意味でのキリスト教主義」をそこに見出したい。

 しかし、現代はその「人間の尊厳」が根底から崩されている。周知の「新自由主義」による「市場原理主義」が人間のあらゆる営みを浸食している結果の総体である。その現実は「格差社会」「貧困」「ワーキングプア」「人間廃棄」「人格破壊」の様々な実態である。一例を引用しよう。堤未果著『ルポ貧困大国アメリカ』(岩波新書 2008)の一節である。「政府は格差を拡大する政策を次々に打ち出すだけでいいのです。経済的に追い詰められた国民は、黙っていてもイデオロギーのためにではなく生活苦から戦争にいってくれますから。ある者は兵士として、またある者は戦争請負会社の派遣社員として、巨大な利益を生み出す戦争ビジネスを支えてくれるのです」(p.177)。「軍服を着て横一列に並ばされる。ドリル・サージェン卜(訓練担当の教官)がやってきて、そこから訓練のスタートだ。教官はいきなり鼓膜が破れそうなボリュームで、『兵士はまず身も心も兵士にならなきゃな!…』」 「泣き声が聞こえるのは最初の二週間だけですね。それを過ぎるとみな表情がなくなっていく。何をされても自分の表情を表に出さず『イエッサー』と叫んで命令に従うようになるんです」 「発狂します。……三人が脱走を試みて捕まり、二人は精神病院に送られました。僕は何とかそうならずに訓練を終えましたが……友人から顔が怖くなったと言われましたね」(p.181)。「格差社会の下層部に苦しんでいる多くの兵士たちにとって、この戦争はイデオロギーではなく、……目の前の生活に追い詰められた末に選ばされる選択肢の一つ……というだけです」(p.185)と。アメリ力の話である。日本はアメリ力の後を追う。

 この巨大な力への対抗軸を築くことにおいて、「キリスト教(宗教)」の独善的「布教(教義の宣布)」は意味を成さないだけではなく、ある場合には「新自由主義」の拡大の一端を担ぐことにすらなる。そこには、「人間の尊厳」の実現に苦労する哲学・文化・諸科学との連携を欠いた宗教の悲惨さがある。今「キリスト教(宗教)」にとっては、関連の社会・政治・経済・哲学・芸術・文化の領域との連携なくしては、その使命の一つたりとも果たしえないことを十分に認識する必要がある。

 いみじくも、それを暗示しているのが詩編121編である。我々キリスト者がこの詩編を読む時、1節を素通りして2節以下の「信仰告白的言説」に思いはなだれ込む。しかし、それにも勝って、1節の言葉がある。冒頭の「われ山にむかいて目をあぐ」は、文学、芸術、文化の世界である。今でも、多くの青年に愛され続けている文学者太宰治は死の2ヶ月前に書いた作品『桜桃』で、その表題に添えてこの詩編の冒頭の言葉「われ、山にむかいて、目を挙ぐ」をのみ引用している。彼は疑問も、解答をも語らず、「目を挙げる」というたたずまいだけを示した。こういった文学的なたたずまいがどんなに「人格的感化」を与えることであろうか。「キリスト教主義」の私立大学には、まだこんな雰囲気があるに違いない。教会はそんな雰囲気を漂わす学院人と連鎖を持ちたい。



 この詩編の1節の後半には「わが助けはいずこよりきたるや」とある。これは問いであり、疑問である。そこには哲学の思索がある。最近ふとした出会いからベルナール・スティグレールの『愛するということ ー「自分」を、そして「われわれ」を』(新評論 2007)を紹介されて読んだ。フランスの第一線で活動するこの哲学者は、ハイパーインダストリアル時代の「私」とは何かに、鋭い問いを向ける。プロファイル化された商品を消費し、規格情報の氾濫のなかで、過去の記憶さえ失い、自分の特異化・個体化の可能性を奪われ自分をすら愛せない「生きにくさ」が、人々を動機のない犯罪や暴力へと駆り立てるごとについての思索は深い。「われわれ」を愛するとは何なのか。貧困と戦争によって人格が破壊され、「われわれ」という人格性が失われていることへの思い巡らしなくして、日常をどのように生きるのか。これに類する哲学的思索は、学院人の日常に渦巻いているであろう。教会はそんな思索と連鎖を持ちたい。詩編はこの冒頭の一旬につづいて、2節の「わが助けは天地をつくりたまえる主よりきたる」において初めて「救い」を語りはじめる(この示唆は笠原芳光『日本人のイエス観』(教文館 2007)による)。いわば、文学や芸術そして哲学の営みとの連鎖なくして宗教は有り得ない。この連鎖は、単に学院の中だけにとどまらないであろう。それはこの地域の隠された多くの人達との連鎖でもある。「この町には、わたしの民が大勢いる」 (使徒言行録 18:10) という言葉が思い出される。

 私たちは、この連鎖が与えられ、厚みを増すことが、学院教会の使命と考え、またそのことを覚えて祈りをささげている。学院人の方々が、その祈りに共に加わって下さることを切に願う。許されれば日曜日の礼拝の席を温めて戴けたらとの思いを幽(かそ)けく抱く。

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