2007.12.23、明治学院教会(98)クリスマス礼拝
(単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん74歳)
マタイ 2:1-12
1.聖書を読んで[第一に]気がつくことは、そのメッセージは「神」が主語で語られていることです。例えば
”初めに、神は天地を創造された”(創世記 1:1)
”神はその独り子をお与えになったのではなく、神がわたしたちを愛して……御子をお遣わしになりました”(Ⅰヨハネの手紙 4:10)
ところが、人間の生き方は、ほとんど「自分」が主語で、自分中心ですから、神を主語にすることは難しいことです。
「神」を主語にしているつもりで「自分の神」が主語になっています。
2.詩を一つ紹介します。皆様も、きっとよく知っている詩です。
マーガレット・パワーズ作「あしあと」です(訳者・松代恵美 1996、太平洋放送協会)。
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとがのこされていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ、わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらいとき、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたは、なぜ、わたしを捨てられたのですか、
わたしにはわかりません。」
主はささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
(サイト記:引用部分、プリントでは漢字・ひらがな表記が混在していました。引用は正確ではないと思います)
3.聖書を読んで[第二に]気がつくことは、聖書の神は、人の姿で「飼い葉桶から十字架への道」を歩まれたということです。それを記したのが「福音書」です。
4.聖書を読んで[第三に]気がつくことは、イエス(人となった神)を知ったのは、人間の世界では、権力・富・地位・学識・能力に安住して、上昇志向を持つ人ではなく、周辺・底辺・弱者でありながら、なお助け合い、支え合い、慰め合っている人たちでした。
東の博士たち、羊飼いはそれを象徴しています。


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