彼を呼べ(2007 礼拝説教・上大岡教会)

マルコ 10:46-52 ”盲人バルティマイをいやす”(マタイ 20:29-34、ルカ18:35-43)

2007.1.28、上大岡教会(横浜)礼拝説教

上大岡通信26号(2007年8月26日発行)所収

(明治学院教会牧師、健作さん73歳)

 今日は、日頃から神奈川教区の中で尊いお働きをなさっている御教会の方々とお交わりを与えられご一緒に礼拝をさせて頂くことができて感謝いたします。


独特なマルコ福音書

 さて先程お読みいただきましたマルコの10章46節以下の一段落には「盲人バルティマイをいやす」という見出しが付いております。さらにその小見出しの下にカッコがあり、カッコの中には(マタ20:29〜34、ルカ18:35〜43)と記されています。これは同じ福音書の中のマタイ福音書とルカ福音書のこの箇所にほぼ同じ物語が記されているということです。

 1ケ所だけ開けてください。39ページ下の段のマタイ20:29 からです。「一行はエリコの町を出ると、大勢の群集がイエスに従った。そのとき二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだ。」という書き出しで書かれています。今、ほぼ同じ物語と申しましたが、ほぼという所が大変大事なのです。見出しは「二人の盲人をいやす」となっています。微妙に違います。微妙に違う所に日を留めて聖書を読むという事が、聖書の一つの大切な読み方ではないだろうかと思います。

 聖書を読むということは、どこから読んでも誰が読んでもどう読んでもいいのですが、でも、あえて聞かれれば、始めての方には、新約聖書のマルコ福音書から読んだらいかがですか、と言います。どうしてかと聞かれると、イエス様のことが書いてあるから、それから、イエス様のことが書いてある福音書のうちで、マルコ福音書は一番古い、元になっている書物だからと申し上げます。イエスという方がどういう方であったか、又、当時の人はそれをどのように感じたか、話を聞いた人がどう受け継いだかということが大変よく分かる書物です。これはイエスが救い主、救い主のことをギリシャ語でクリストス(キリスト)と言いますが、イエスがキリストであるということはどういうことなのかを、マルコ福音書独特な方法で語っています。独特と言いましたが、「独特」が大事な所です。

 私どもは礼拝の中で使徒信条を唱和しました。これはキリスト教の信仰を要点でまとめたものです。キリスト教の歴史の中では後の時代、紀元7世紀頃にこの使徒信条が確立されています。私は使徒信条を読むときに、いつも気になる事があります。それはお気づきになっている方が沢山いらっしやると思いますが、「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、死にて葬られ陰府に下り」と、生まれて死ぬことはそこに書いてありますが、その間どのように生きられたかというイエスの生涯がスポツと抜けてしまっているのです。どうして抜けてしまったのでしょうか。イエスは十字架上で死刑になり、死にます。弟子たちの、悔いと悲しみが大きかっただけに、イエスの死の受容は大変な作業でした。

 先日は葬儀があったそうですが、一人の人の死を受け入れるという喪の作業の営みは、大変な事です。しかし、イエスの死の意味を深く受け入れて積極的に理解し、弟子たちは「イエスは生きておられる」「イエスは復活した(起こされた)」という信仰がそこに生まれます。信仰により集まってきた人のことを、歴史上「原始キリスト教会」と言っていますが、
最近の研究者には、原始キリスト教とは言わず、ユダヤ教イエス派と言ってる方もいます。

 いずれにしろイエスを慕う初期の者たちの経験した出来事、死からの復活があまりにも強烈であったために、信仰のことを言い表す時に「死んで葬られ、そしてよみがえった」という所に焦点が集まってしまったのです。その事でイエスの生涯を語るという事が抜け落ちてしまったのです。

マルコの描くイエスの生涯

 273ページ、ローマの信徒への手紙1:2-4はごく初期の信仰箇条です。パウロはこれをローマの信徒への手紙に入れ込み、一番大事なものとして述べています。ローマ書が出来てから20年も経って書かれたのがマルコ福音書です。マルコ福音書の方が後なのです。「神の子イエス・キリストの福音」と冒頭に書かれていますが、これをパウロがまとめたような仕方で表現をしないで、別の表現をして、福音書という文学・物語の形式でイエスの生涯を語ったのです。どこからその生涯の話を集めてきたかというと、民衆の中に伝わっている伝承です。イエス様はこんな方だった、ということを皆が伝え持っている、その伝承、あるものは文章化されていたものもあるかもしれません、オーラルなものであったのかもしれませんが、それを沢山集めてきて編集したのです。ですからマルコによる福音書は「イエス・キリストの福音の初め」と一番初めに書いてあります。そして一番終わりに行くと、最後にガリラヤで主にお会いできるだろう、と書いてあります。

 ガリラヤでお会いできるという事は、もう一度初めからあの物語を繰り返して読むということなのです。マルコ福音書は、全部読み終わったら、あのイエスが活動された所へもういっぺん帰ってイエスに出会うという形でイエスがキリスト、救い主であるということを語ったのです。これは当時では画期的な書物で、まさに福音書は、イエスの事を語った第一級の文学書でありました。

 よくエピソードで語られますが、京都の同志社は新島襄により創立されましたが、新島襄を助けたデイビスという宣教師がいました。彼が亡くなる時、臨終の場で娘婿が「何か遺言はなきや」と聞くと、デイビスはおもむろに微かな声で「マイライフ イズ マイメッセージ」と言います。「私の生涯全部が遺言なのだ」という意味でしょう。

 マルコは、イエスとは誰かという事をその生涯全部を集めてくる事によって書いたのです。マルコ福音書をたびたび読み返しますが、激しい書物ですね。初期の教会が、信仰というものは要するにこういうことだ、とまとめてしまった。それに対して、それは違うと批判している第一級の批判書です。奇跡によって病める人々が癒された。その物語を沢山集めています。あっちの奇跡こっちの奇跡物語です。今日の話もその一つです。そして、この書物は、当時の既成宗教であったユダヤ教を根底から批判するイエスを描きます。イエスの挑戦的な言葉を沢山入れ込んで、福音書の中にまとめます。

マルコ福音書における分水嶺としてのバルティマイ物語

 マルコの10章46節以下盲人バルティマイを癒す物語は、私はマルコ福音書の分水嶺だと思います。分水嶺というのは、こっち側に水が流れるのとあっち側に水が流れるという境目です。JRの中央西線をずっと上っていくと、こっちを向いて流れていた木曽川が、塩尻の少し手前でトンネルを越えると千曲川の支流になって流れている、あの分水嶺です。マルコ福音書の分水嶺はこの10章だと思います。こっち側は、イエスに従ってくるが弟子たちはなかなか頑迷で、さらにイエスが実際に付き合ったファリサイ人たちは非常に頑迷です。2章の17節で、医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である、とファリサイ人の前で露骨に言います。自分たちが「病人」に過ぎないということすら気付いていないで、まるで世界の裁判官のように宗教的な指導者の顔をしている人たちに挑戦的に痛烈な批判とアイロニーを浴びせます。これがマルコの前半。

 そして福音書は「奇跡物語に乗って」というほどに沢山の奇跡物語を持ってきてイエスの出来事を伝えます。イエスに出会った人がどのように自分自身の主体を回復していくかという物語を書いています。

 それに対し弟子たちはどうであったか。10章では彼らは自分の栄達しか求めていない。
誰が一番偉いかと。ヤコブとヨハネの願いという話があります。そして11章からは受難物語で、イエスは受難、十字架ということを目差してエルサレムに出発をするのです。その一番の頂点の分水嶺のところに、この物語バルテマイの物語があるのです。

 バルティマイという名前がどんなに大事な名前かをマルコ福音書は伝えています。しかし、ルカ福音書もマタイ福音書もその名前を落としてしまいます。盲人の治癒物語という、すごい抽象化ですよね。バルティマイという一人の人が生きることができたというあの出来事に感動するかどうかということではなく、盲人の治癒物語という形でまとめてしまう。大体我々でもーつの出来事に感動するということではなく、絶えず抽象化して物事をまとめていきます。ところがマルコは抽象化、一般化をしないのです。

 エリコを出てエルサレムに向かう途上での出来事です。エルサレムに向かうとは、この世の頑なな勢力と向き合うという受難の物語が進行していくことです。あの11章以下です。イエスは神の国を述べ伝える使命に従って、避けがたいこの世の力とぶつかっていきます。そこには一方に弟子たちの無知無理解、愚かな自己主張が極めて鮮やかに出てきます。そしてイエスは一人エルサレムに上って行く。その物語の結節点にバルティマイがいます。バルティマイは、人並みに目が見えたら俺だってこんなにみじめではなく生きられたのに、という気持ちを持って、しかし彼は道端という一ケ所を社会から与えられた「物乞い」をする場として持って日々
を送ります。そこに行って座っていれば彼はそれなりに社会から憐れみを受けて生きられた。俺だって見えたら、という願いをどんなに持っていたでしょうか。しかしマルコは、そのバルティマイの見えないという事と、自分たちはイエスの事が分かっているという弟子を対比させています。本当はイエスの事は分からなかった弟子たち。肉体の目は見えなかったが、あのイエスに従っていく一番の頂点の所にバルティマイがいるという事です。彼はイエスの一行だと聞きつけ叫びます。

「ダビデの子イエスよ」

「彼を呼べ!」に応える

 ダビデの子孫から救い主が生まれるという事は当時の常識でした。誰もが知っていました。しかしこのイエスがダビデの子である、メシアであると言う事、これは危険思想です。だから他の人は黙れと叱った。叱りつけて黙らせようとした。盲人の切なる叫びまで黙らせようとする、そういう社会的状況。ここの所で「彼を呼べ!」という鋭い一声が走ります。彼の叫びを聞き逃しはしなかったイエス。これはイエスの断固たる意志です。一人の絶望する人間を見逃さないという意志。それは同時にエルサレムに向かってこの世の権力ときちんと向き合うという意志。人間の尊厳を脅かす力と厳然として向き合う意志。救済の意志。十字架の苦難に向かう意志。他の言葉で言うと神が救いをもたらすという事の意志。聖書の神とは何かと聞かれたら、それは一人の疎外された魂に向かう強い意志だというように答えたいと思います。一人の人に、大勢の常識を破って彼を呼べと言う、その魂まで入り込んでいく言葉が告げられるのです。

 50節に彼は上着を脱ぎ捨て、とあります。上着とは何か。これは彼が道端で物乞いをする時に広げる上着で、それを用いて物乞いをするのです。そういう依存的な生活形態です。それは社会で許容されている。彼もそれに甘んじていれば、それなりに上着を広げて盲人として毎日何がしかの施しを受けて生きられました。だけれど、彼にはその盲人という役割に黙し難く、人間としての叫び、魂の叫びがあった。自分の内側から出てく叫び。それを引き出す「彼を呼べ」という、あの人格的な叫び。ここでは「あの男を呼べ」と訳されていますが、口語訳の聖書では簡潔に「彼を呼べ」と訳されています。思わず上着を脱ぎ捨てる。上着を脱ぎ捨てるということは、その与えられた生活を投げ捨てるわけです。どんなに危険な事か、これからどうやって生きていくのか。しかし思わずそれを投げ捨てるのです。そして俺は見えたならば、という、その切なる願いを持ってイエスに向かって立ち上がるのです。他の言葉で言えば自立して生きることでしょう。憐れみの中で物乞いをする、それ相応に生きていた人間が、上着を捨てて、イエスの招きに応えて彼がとった行動。これは彼の行動には違いありませんが、招きによって引き出された行動です。

招きによって起こされた行為

 上着を脱ぎ捨てたというのは彼の行為であって彼の行為ではない。それは招きによって起された行為です。ここが奇跡なのです。我々でも、人格的に呼びかけられた時に応えてきています。これが、私どもがイエスとの出会い、神との出会いと言っている奇跡です。奇跡と言うと現代人は英語でいうミラクル・不思議な出来事と考えますが、ワンダー・驚くべき出来事と訳すべきです。マルコ福音書はミラクルを示したのではなく、ワンダーを示したのです。そして道端を抜け出します。「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」と言う。それが彼の信仰の告白です。マルコ福音書にある大変立派な信仰告白はペテロの信仰告白です。「あなたこそメシアです、あなたこそキリストです」と8章29節で告白しています。マルコ福音書はこの物語をちゃんと知っていました。そしてそれを8章で採用し、そのペテロの告白にはイエスのお叱りを付けています。そしてイエスの十字架の道行、受難物語の出発点にはバルティマイを持ってき、彼の告白を配置するのです。ここにはペテロに対する、又ペテロを元祖にしてすでに出来上がっていた教会に対する、あるいはもう少し遡って原始キリスト教が持っていたパウロ文書に対する、批判が込められています。

キリスト教への失望感

 最近『聖書と現代社会一太田道子と佐藤研を囲んで』(新教出版社 2006)という本を読みました。この本を作ったのは「NGO 地に平和」です。 この団体は、太田道子さんが10年ほど前から起こされて、メンバーの多くの方はキリスト者ではありません。この団体は、パレスチナで難民救援など、いろいろなプログラムを持っています。同時に太田さんと一緒に聖書を学んでいます。太田道子さんは旧約聖書学者で、新共同訳聖書の旧約の部を翻訳し、まとめた編集委員です。エルサレムやローマのカトリックの聖書研究所などで聖書の勉強を長いことして、日本ではほとんど本を書かず、外国で暮らしておられました。

 彼女は『聖書と現代社会』の各所で今の既成のキリスト教(教会も含まれます)に対して深い失望感を言い表しています。制度的教会とかキリスト教とか既成の神学などに対してです。自分は聖書というものをキリスト教と結びつけて理解しようとしていたが、そういう努力をやめたということを始めに言っています。聖書の持っている本当にすごい力、その中心にいるイエス、それは既成のキリスト教を媒介にしなくても現代社会の中で力を持つと言う。そして多くの人が、その力によって難民の救援をやったりしている。それほど深いものだと言うのです。

 この本を読んでショックでした。太田さんは一生懸命に「地の平和」をやっていて、来ている青年たち、難民救援などいろんな所で活動したり研究している人たちが聖書を読んでいて、自分もキリスト教会に行きたくなったと言ったらどうしようかと言っているのです。自分が紹介できる教会はないと言う。幸いな事に誰も教会に行きたいとは言わなかったと言う。そう書
いてあります。ショックです。

 僕は50年近く聖書を一生懸命に読んで、教会が現代社会の問題に取り組み、教会が聖書と現代社会を媒介する働きを果たして行きたいと思ってやってきたわけです。でもこの本の深い失望感に共感します。でもだからといってこれから教会の働きを止めるわけではありません。今までやってきたように、教会を、現代社会と聖書を繋ぐものとして希望を与えていくところに変革していかなくてはならないと思って励んでいます。

 渡辺英俊さんと一緒にブラジルヘ「解放の神学」を学ぶ旅行をしました。ブラジルのカトリックの人は「ラッツィンガーだけには法王になって欲しくない」と言っていました。そのラッツィンガーが今法王になり、ブラジルの「解放の神学」を弾圧しているわけです。日本キリスト教団もそうです。あの方だけには教団議長になって欲しくないと前から思っていたけれど、その方がなってしまっています。そして僕らが一生懸命にやってきた戦責告白以来の40年を、あれは無意味な40年だった、「荒野の40年」だったと平気で総会で言いました。私は総会の傍聴に行き、逆に正にその発言が荒野の40年の始まりではないかと思いました。

招きに促される奇跡

 世界のトップレベルの聖書学者の太田道子さん、そして新約学の佐藤研さんを囲んで語っているその会話の中に、深い失望感が働いているのは驚きですが、マルコ福音書もそうだったと思います。ペテロやその他の弟子たちに対しても失望感を持っていた。だからバルティマイに、イエスに従って行くその生き方を見たのです。イエスは「行きなさい、あなたの信仰が
あなたを救った」と言われます。注意深く読むと『救った』というのは現在完了形です。彼の見えるようになりたいということは現在完了で既に実現したと言う。どういうことでしょうか。彼は他律的というか、ものにすがるように生きてきた。しかしイエスに出会うことで自立できた。自分で立って生きるわけです。「あなたの信仰があなたを救った」と。そして依存の象徴であった上着を脱ぎ去った時に奇跡は起こった。「行け!」。その言葉に押し出されて彼は行くのです。

 かつて私が牧会をしていた教会に一人の青年が訪ねてきました。大学の農学部を出て、その分野では由緒ある会社に勤めていたけれど、彼は先天的な遺伝子疾患で目が悪くなり、だんだん狭窄で見えなくなってやがて失明する人生を歩むことになります。その時、たまたまYMCAの予備校でもらったギデオン協会の聖書のことを思い出して教会へやってきます。生活しなければと鍼と灸をやっていよいよ完全失明した時に備えると言ったけれど、彼はその役割が納得できませんでした。教会へ来て一生懸命に求めました。社会から何か役割を与えられて生きるということは、目が見えなくなったら、自分はできない。そして教会でイエスに出会った「あなたの信仰があなたを救った」。「あなたが自分の足で生きて行きなさい」と。それで彼は、会社の役割を考えて心理学を勉強したけれど心理学は救いにはならないと言って、神学部で神学を勉強します。大変な努力です。この頃は[音声翻訳機]というのがあって、本を入れると音声が出て来るという。大変お金のかかる機器ですが、そういう機械を買ってせっせと本を読む。そのくらい一生懸命に勉強して神学部を卒業したのです。本当に不思議な事で奇跡としか言いようがない。そこで彼のことを愛してくれる伴侶に出会います。彼女も神学部で勉強して牧師になるという女性で、彼と手を携えて神学部を卒業して、今は一つの教会で牧会をしています。

自立への招き

 本当に求めて自立して生きるということを願うなら、そういう道が開けて来る事を彼を通して知らされました。正に「彼を呼べ」と言うその声に促されて、その青年も生きていたのです。道端という居場所から飛び出て、温みをもった上着を投げ捨てて。そのような意味で「彼を呼べ」と言う声は、私たち一人一人に投げかけられているのです。この現代という時代に、一人一人が自立して生きることが求められています。自分の足で出で立つということ、これが、マルコが伝えたい、バルティマイの物語です。

 お祈りをいたします。

 神様、上大岡教会の皆さんとご一緒にイエスの強い意志を思い見ることができましたことを感謝いたします。切なる叫びをする時にあなたは応えて私どもを召し出して下さいます。私どもを行き先へと押し出して下さることを深く思います。一人一人生かされているが故の貴方の証しを持っています。どうかその証しを深く自覚してイエスに従って、自立的に歩むことが出来ますように祝福をして下さい。この祈りを主イエスの御名によってお捧げいたします。アーメン。