エッサイの株(2006 礼拝説教・イザヤ・待降節)

2006.12.10、明治学院教会(55)待降節 ②

(単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん73歳)

イザヤ 11:1-9、ローマ 15:12-13

1.「エッサイの株」は、聖書の術語といっても良い。

 旧約聖書の紀元前8世紀から7世紀の歴史と預言者の働きがそこにある。

 預言者イザヤはユダ王国のアハズ王、ヒゼキヤ王の悪政を叱責した。

”支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり、皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず、やもめの訴えは取り上げられない。”(イザヤ 1:23、新共同訳)

 マナセ王は、アッシリア帝国に隷属し、政権の延命を図るが、もはや人格崩壊を起こしていた。

 イザヤはダビデ王朝の滅亡を感知した。しかし、王朝は神の裁きで絶たれるが、神の意思は(ダビデの父)エッサイの存在と共に残されることを信じた。

 それは木の切り株の根っこの様にそこから芽を出すに違いないという確信である。

”しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。”(イザヤ 6:13、新共同訳)

 イザヤは終末的な救いの徴をこの切り株に見た。

 イザヤ書11章は、歴史の現実の闇にもかかわらず、「エッサイの株」ゆえに希望を持つという信仰。古来、待降節の聖書テキストとして選ばれている。

2.エッサイは、ユダのベツレヘムの出身(サムエル上 17:12)。信仰深い異邦人モアブの女ルツの孫(ルツ記 4:17、歴代誌 2:9、マタイ 1:5)、決して豊かではない当時の普通の羊飼い、8人の息子がいた(サムエル上 17:12)。

 平凡な人間。しかも、その後の聖書での「エッサイの子」という用法は、いささかの軽蔑の意味が込められている(サムエル上 20:27、22:7-8、サムエル下 20:1、列王記上 12:16)。

 権力を持った者からの蔑み。

 イザヤは注意深く、「ダビデ」が象徴するものと「エッサイ」が象徴するものとを見分けている。

 ここは極めて大事である。

 ダビデ王朝の世俗性、肉の働き、権力の継承に対しては、キッパリと断絶、非連続を告げる。

 と同時に「エッサイ」に象徴される、無名性、弱さ、神の恵みを受ける以外に誇る要素のないもの、これらは脈々と連続すると。

3.後々、キリスト教会は「その根から一つの若枝が育ち」(イザヤ 11:1)という言葉に、救い主(キリスト)イエスの出現という文脈を重ねた。

 三つの霊の働き(11:2)を救いに与る者の働きとして捉えた。

”知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。
 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
 目に見えるところによって裁きを行わず、
 耳にするところによって弁護することはない。
 弱い人のための正当な裁きを行い
 この地の貧しい人を公平に弁護する。”(イザヤ書 11:2-4、新共同訳)

 現代的に直訳すれば、「知恵と識別」は分析よりも総合を重んじる知恵。

「思慮と勇気」は行動力。「主を知り、畏れ敬う生き方」は自分を見直す視点。

 その結果、弱者・貧者が切り捨てられない世界が実現する(11:4-5)。

4.『あんにょん・サヨナラ』(日韓共同ドキュメンタリー映画)を観た。

 主人公・李熙子(イ・ヒジャ)さんは、父を徴用し死なせ、通知もしない日本国家を問う。

 靖国神社への合祀取り下げを訴える彼女の願いは、死者の国家による顕彰のゆえと拒絶される。

 国家に激しく憤り、恨(ハン)を覚える。しかし、運動の最中、同質の問題と闘う日本人に出会い、希望を抱く。

 そこに「ダビデ王朝」とは別な「エッサイの株」を見る。

55-20061210

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