2006.10.15、明治学院教会(49)、聖霊降臨節 ⑳
(単立明治学院教会 主任牧師1年目、牧会48年、健作さん73歳)
フィリピの信徒への手紙 2:12-18
三つのこと。
1.第一は、13節の「内に働く」。
”あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。”(フィリピ 2:13、新共同訳)
「聖霊の働きかけ」として、一人一人の「心のうちに働きかける」という理解よりも「あなた方の間に働きかける」の方が原意に近い。
(日本キリスト者医科連盟で聖書研究を担当した際の省察)
「働きかける ”エネルゲイン”」をパウロは教会論的に用いている(Ⅰコリント 12:6参照)。信仰共同体・仲間に働く。
2.第二は、13節の後半の「行わせておられるのは神である」の強調。
”あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。”(フィリピ 2:13、新共同訳)
フィリピの信徒への手紙で、論旨の大事なところは「神が主語」であるところ(1:6、2:9参照)。
”あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。”(フィリピ 1:6、新共同訳)
”このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。”(フィリピ 2:9、新共同訳)
救いは神の恵みによって可能になる。人間は自分の力で救いを確保することはできない。
3.第三は「従順」。
2章6節以下で、キリストについて用いられている言葉。
第二番目の「神が主語」を内容的に「恵みの受け手」から言い換えると「従順」。
神の恵みの意志に従順であれ、神が低くあられた意志に従順であれ、という意味。
「従順 ”ヒュバコエー”」は「聞く ”アクーオー”」から来ている。「聞き従う」が適訳。
(一方で、日本語の「従順」は「順序に従う」。ともすると、権威に服するニュアンスを持つ)。
「聞く」という相手の人格的存在がまずあって、その人格との関係そのものを意味する。
イエスが父なる神の意志に従順であった、その関係が基本にある。
”へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。”(フィリピ 2:8、新共同訳)
この一句は一気に読まれるべきで、「従順」だけを切り離せない内容。
神であることを放棄した「へりくだり」そのものが内容。
ローマの信徒への手紙 1:5と16:26 で、パウロは《信仰による従順》という言い方をする。行為に依らないで、神との関係が深くされていく様を言う。
「自分の救いの達成に努める」とは、自分で救いを作り出すことではなく、神の救いの働きが、自分との関係において、徹底してゆくように「委ねる」ことを意味する。
”だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。”(フィリピ 2:12、新共同訳)
4.本田哲郎著『釜ヶ崎と福音 ー 神は貧しく小さくされた者と共に』(岩波書店 2006.6)。
カトリック司祭。聖書学研究所を経て、フランシスコ会・修道会の日本管区の責任者。大阪•釜ヶ崎を任地にして働く。
鹿児島県•奄美大島の出身。4代目のクリスチャン。父の兄弟が7人、従兄弟が40人、これが皆クリスチャン。クリスチャンらしく、神父らしくという「良い子症候群」を持ち続けてきた。管区長時代に釜ヶ崎を訪ね、野宿者に毛布を配る中、
「にいちゃん、すまんな、おおきに」
の声を、イエスの声として聴き、「弱さの中にいる神」に出会う。
以来、「救いの達成」を、痛み・苦しみ・寂しさ・悔しさ・怒りの中にある人との関係にみる。
5.アイヘンバーグの宗教画(ニューヨークの炊き出しの風景の中のキリスト)
Christ of the Breadlines 1952, Fritz Eichenberg
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