役目に向かって(2006 礼拝説教・フィリピ③)

2006.9.17、明治学院教会(45)、聖霊降臨節 ⑯

(単立明治学院教会 主任牧師1年目、牧会48年、健作さん73歳)

フィリピの信徒への手紙 1:19-26

1.生と死を神に委ねるパウロ。

 フィリピの信徒への手紙でパウロが言う「福音の前進(前週説教)」という考え方の根底には、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」という死生観がある。

”生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。”(フィリピの信徒への手紙 1:20、新共同訳)

 フィリピの教会の人たちは、そこまで透徹できてはいない。しかし、パウロはそれを執りなして祈る。

2.パウロの死生観の底には、長い信仰遍歴がある。

 パウロ理解には欠かせない「律法からの解放」。

 パウロは熱心なユダヤ教徒の一人。彼は神に受け入れられ(”義と認められ”)、「救い」を得ようと律法遵守に努力する。

 しかし、完全に神の戒めを守ることはできない。「できない」ことを彼は自分の罪の問題として深刻に捉え、打ちひしがれる。「生きられなくなってしまった」現実を「罪が支払う報酬は死です」(ローマの信徒への手紙 6:23)と表現する。

 そして遂に、神に受け入れられることは、律法からの解放であることに気づく。

 彼は次のように告白する。

”人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。”(ローマの信徒への手紙 3:23-24、新共同訳)

 彼にとって「神関係は変わらなかった」、しかし「神理解は全く変わった」。

「律法の働きの神」から「信仰による義の神」へと理解が変わった。

 罪の贖いとしての「自分の業への働き」からの解放について「コリントの信徒への手紙1 15:55節以下」で彼は鮮やかに述べている。

”働いたのは、実にわたしではなく、私と共にある神の恵みなのです。”(Ⅰコリントの信徒への手紙 15:10、新共同訳)

フィリピ 1:20「生きるにも死ぬにも」の背景は深い。

”そして、どんなことにも恥を描かず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。”(フィリピの信徒への手紙 1:20、新共同訳)

3.生も死も、神から賜ったことだと素直に受け入れられた生活の中で、何を選択して生きるかの問題が続く。

 心境としては「二つのことの間で、板挟みの状態です。」(1:23)、「だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」(1:24).

 パウロは、達観の世界を生きるのではなくて、もう一度、「肉にとどまる」(1:24)決断をする。

 それは、信仰の途上にあるフィリピの教会への使命の自覚である。

4.フィリピの教会の人たちの苦労を一緒に負うということ。

”こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。”(フィリピ 1:25、新共同訳)

 相手の必要のために労苦することは、パウロに「与えられている役目」であると自覚する。

 フィリピの教会の信仰の成熟のために、パウロはなくてはならない存在。役目があった。

5.私が牧会生活を励まされ、支えられた、ある信仰の老婦人の言葉の重み。

 ”お役目ですから”

「役目が与えられている」。

そのように自分を捉えることが、信仰に生きることの積極性ではないだろうか。



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