身についた信仰(2006 礼拝説教・コロサイ)

2006.7.16、明治学院教会(39)、聖霊降臨節 ⑦

(単立明治学院教会 主任牧師1年目、牧会48年、健作さん72歳)

コロサイの信徒への手紙 1:13-23

1.「神をますます深く知るように」(10節)の「知る」(エピグノーシス)は、コロサイの手紙のキーワード、鍵になる言葉。

”すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。”(コロサイの信徒への手紙 1:10、新共同訳)

 知識ではなく、身体で知ること。

 職人が仕事を身体で覚えるように(参照『職人』永六輔 岩波新書 1996)。

2.13−14節。救いの基本用語が語られる。「闇の力からの救い」(13節)。

 15−20節。初代教会の「キリスト賛歌」(参照:フィリピ 2:6-11、エフェソ 5:14b、Ⅰテモテ 3:16)。

 前半(15-18a)は、ヘレニズム時代のユダヤ教の「知恵」の賛歌。
 後半(18b-20)は、キリストの和解による世界の秩序。

 創造は、人と自然の非絶対化。
 和解は「御子の肉の体において、その死によって」(22節)。

「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり」(23節)は《建築物の基礎》のイメージ(岩波訳)。

3.信仰の意識されない部分の大切さ。

「習うより慣れよ」。「習う」は能動的・知的作業。「慣れる」は受動的・意識以前のこと・身体の出来事。

4.以下引用、マーガレット・パワーズ作「あしあと」(訳者・松代恵美 1996、太平洋放送協会)

 ある夜、わたしは夢を見た。
 わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
 どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとがのこされていた。
 一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
 わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
 そこには一つのあしあとしかなかった。
 わたしの人生でいちばんつらく、悲しいときだった。

 このことがいつもわたしの心を乱していたので、
 わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
 「主よ、わたしがあなたに従うと決心したとき、
  あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
  わたしと語り合ってくださると約束されました。
  それなのに、わたしの人生のいちばんつらいとき、
  ひとりのあしあとしかなかったのです。
  いちばんあなたを必要としたときに、
  あなたは、なぜ、わたしを捨てられたのですか、
  わたしにはわかりません。」

 主はささやかれた。
 「わたしの大切な子よ。
  わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
  ましてや、苦しみや試みの時に。
  あしあとがひとつだったとき、
  わたしはあなたを背負って歩いていた。」



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