2006.4.2、明治学院教会(26)受難節 ⑤
単立明治学院教会 主任牧師就任 最初の説教
(牧会48年、健作さん72歳)
マタイ 16:21-28
1.福音書の分水嶺。
川の流れが一方は太平洋に、もう一方は日本海に。
この「分水嶺を越える」感覚を「受難予告の物語」を読むときに覚える。
福音書はマルコ福音書が一番先。マタイ、ルカはその改訂新版、あるいは地域版。細部のバリエーションはかなりあるが、骨格部分の構造は似ている。
「イエス、死と復活を予告する」物語は、マルコ・マタイ・ルカ共に3回出てくる。
福音書におけるピリポ・カイザリアの位置付け。イエスのガリラヤの宣教活動とエルサレムへの受難に向かう分水嶺。
「教え」と「実践」の分水嶺。
貧しい者、病める者と共にあることから、それを阻む力に真っ向から立ち向かうイエス。
2.「弟子たちに打ち明け始められた」(マタイ 16:21)。
「始める」は「最初の段階」を意味する。
蒸気機関車の動輪の最初の駆動のように重い。
イエスが弟子たちに死のことを語る重さ。
一切を捨てて、イエスに従った弟子の召命への再理解を促している。
「自分を捨て、自分の十字架を負うこと」への新たな招き。
”それから弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。”(マタイによる福音書 16:24、新共同訳 )
3.「必ず…ことになっている」(マタイ 16:21)
”このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。”(マタイによる福音書 16:21、新共同訳 )
「神の必然」ともいうべき初代教会の確信。
「受難と十字架の死と復活」というイエスにおける出来事が、神の御業であることを表明した言葉。
十字架に殺された無力さが「逆説的」に長老・祭司長・律法学者たちの”神”を相対化する必然。
4.「自分の十字架」。
(ある教会学校の女の子のエピソード)
ボンヘッファーはこのテキストの意味を「イエスが人を招く時、彼はその人に来て、死ぬことを命ず」と表現した。
初めの招きよりも、一歩踏み込んだ招きが。
5.知人の難波紘一さんと幸矢さん夫婦のこと。
彼らは、二人が大学生の時、中国•四国YMCAで知り合って、結婚しました。
結婚した直後、幸矢さんは「私はあなたと結婚してよかった」といった。
それから何年か経ち、夫の紘一さんは不治の病・進行性筋萎縮症になる。
二人は病のため、試練の長い長いトンネルを潜る。多くの人の祈りに支えられ、今までの自分に死んで、自分の人生を神に捧げようという転機が訪れる。
病状が進んで、二人でできる神への奉仕、社会への奉仕の時間が残り少なくなってきた。実質的苦難はますます重く、死別が確実に近づく中で、幸矢さんはあの懐かしい言葉をもう一度語る。
「私は、あなたと、結婚して本当によかった」
新しい出発。
信仰生活には「自分を捨て、自分の十字架を負う」ことで、再び「本当によかった」という言葉に浴する恵みがある。


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