子どもへのお話(2005 宣教学 ㊺)

2005.11.1(火)、西宮公同教会、関西神学塾、「岩井健作」の宣教学(45)
関西神学塾 岩井健作 

(明治学院教会 協力牧師、健作さん72歳)

1.現在

 今年9月から「単立 明治学院教会 協力牧師」(4月から無牧の教会です)を引き受けることになりました。日曜日・月3回を目途に、礼拝説教と牧会を担当しています。礼拝は学院横浜校舎のチャペル(500人位の収容人数)で20人前後位の礼拝です。50歳代後半から80歳代の方が大部分ですが、学生も2-3人、そして子どもを連れた若い夫婦連れや母親も数組、出席しています。礼拝プログラムは長老派の伝統にたったオーソドックスなものだと思います。日本基督教団式文の一番普通のタイプは18項目。明治学院教会は19項目。一つ多いのは、「主の福音 子どもへのメッセ-ジ 子どもさんびか」という一項目が入っているからです。プログラムの前半、聖書朗読、(牧会)祈祷、の次に入っていて、それが終われば、賛美歌を歌い、主の福音(説教)」に続きます。

 前からの言い伝えで、子どものお話は、その日の大人の説教テキストで話して欲しいということになっているので、私もそれを守っています。子どもがだれもいない時は、プログラムはパスします。いる時は、子どもは一番前の席に、飛び出てきます。まず、その日の「聖句カ-ド」(AVACO)を渡します。とても楽しみにしているようです。

 子どもの年齢は2歳から小3ぐらいで、日によって違いますので、一応は準備(例えば予め絵を描いてゆく、その場で絵が描ける準備をしていく、絵本を用意する)や心積もりはしていきますが、顔を見てのアドリブで話します。

 この場合、大人は子どもへの牧師の話を、自分なりに受け止めますから、どれ程子どもが生き生き聞いているかが大事になってきます。子供に語りつつ、実はその礼拝の大事な出来事になります。ここが礼拝の中での「子どもメッセージ」の意味深いところです。大人の礼拝の中ですから短いこと、メッセ-ジが鮮明であることが大事です。

<実例①>
5歳、6歳。(10月2日)ルカ 15:1-7「失われた羊」

「羊を見たことがある?」(ある、動物園で。用意した厚紙に羊の絵を描いて見せる。ここがミソ)「沢山いた?」(うん、5、6匹)。「抱いたことある?」(ない)。「抱いてみたいよね。毛がふわふわだよ。でも一匹しか抱けないよ。羊は、ほんとはね、百匹、もっともっと一緒にいるんだよ。イエス様は羊が大好きだったの。だから、聖書には羊のお話がいっぱい出てくるの。ひつじ-っていったらイエスさまだ-って、覚えていてね」

「暗い夜、独りぼっちになってしまった羊がいたの。淋しかっただろうね。イエス様はそのさび羊の気持ちがとてもよく分かったから、羊のお話をしたのだと思うよ」

 大人へのメッセ-ジの「一が失われてはならないという叫びは、イエスのこの世の強者に対する逆説的反抗(田川)の生き方そのものであった。それは十字架へと突入する予表であった」に呼応するように組み立ててみた。

 当日、聖書学者・岡村民子氏に聖書の正典的読み方の訓練を受けた年配の女性から「一匹をイエスに投影する読み方は新鮮であった」との応答を受けた。「子どもさんびか」は55番(小さい羊が家を離れ。[87年版72])を歌った(優しい羊飼いをイエスに重ね合わせる)。


<実例②>
1歳、3歳、6歳の女の子3姉妹と6歳の男の子。(10月9日)コロサイ 1:24-29「苦しむことの喜び」。

 この時は、絵本『かみさまのおてつだい-ぼくびょうきでいいんだね』(絵と文 佐原良子 同朋舎出版 1993)の読み聞かせをする。

 入院を嫌がっていた心臓病の子が病院で同じ入院の小さな女の子に、注射で泣くのを励ましてから、自分の入院を「神様のおてつだい」と喜ぶことができた、というお話。(京都葵教会佐原牧師夫妻の次男契児くんの実話)。絵も大胆で読み聴かせに適した本。

 コロサイの教会は当時の哲学の影響で、観念的信仰者が多かった。著者は「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしていく」(1:24)といって、教会の共同体形成は苦しみを負うこと抜きでは有り得ないことを語っている。

 その日、教会にきている若い夫婦のところに女の子が誕生したという報告が父親からあった。そして生まれた子はダウン症であることが同時に報告された、教会員には障害児保育が専門の元保育園の園長がいて、この家庭と歩みを共にすることが教会の使命であるとの自覚の促しとして「主の福音(説教)」を受け止めた、との応答があった。▶️ 参照

 その日は無牧になって初めて計画された教会「修養会」であった。そのような意味を自覚すると「ここに教会が存在する」という事実が(たとえ小さく単立であっても)大きな励ましであると、中心的メンバーが語っていた。


2.川和保育園

川和保育園(横浜市都筑区川和町、現日本基督教団川和教会の母体となった施設、歴史70年余)は、毎週5・6歳児の礼拝を木曜日に行っている。私は代務者時代には毎週、現在は月一回お話を担当している。この保育園では聖書テキストに創立者(寺田キク1901-1990)が毎月の暗唱聖句として定めたものを使っている、それがカリキュラムの中心をなしているが、12の基本聖書に限定されるので、それに拘わらず自由に選択してお話をしている。保育園では礼拝を一番厳粛な時として力を入れて守っている。

 話は「牧師」に依頼すると園長は決めている。2年間お話を続けて、その年の卒園記念誌に短い文章を書いたので、雰囲気を紹介するため、転載してみた。


『出会い』(2003年 卒園記念誌)

 みなさんとは、月一回の礼拝の出会いでした。でも、みなさんは、ほんとうによく「ぼくしせんせい」のお話を聴いてくれましたね。「お祈りは、手を組み合わせて、合わせた手にギュっと力を入れて、目をしっかりつぶってするんだよ」「大きな目玉を気にしていたタッちゃんは、熊とにらめっこで勝った時、それを神様から戴いた賜物だと気が付いた」など。

 実は、みなさんには直接お話はしなかったけれど、2003年というのは、アメリカがイラクに戦争をしかけた大変な年でした。私はこの夏「NO WAR STOPE THE KILLNG 」(戦争はいけない。殺すのは止めよう)といって、何回も雨の中を東京のデモ行進に加わりました。イラクの子供たちが放射能でたくさん癌になったことなど、みなさんも大きくなって聞くと思います。みなさん『世界中の子供たちが平和に暮らせるように』と、何時も祈って下さい。祈りで、私はいつもみなさんに出会っています。 岩井健作


(2004年卒園記念誌)
 礼拝のとき、お話をよくきいて下さってありがとう。ぼくが2004年夏、ブラジルの貧しい人達をたずねて帰ってきて、保育園の礼拝で、地球儀をもってブラジルを指して、貧しい人達のことを忘れたらだめだというお話をしたのをおぼえていますか。みんなに「貧しさ」を分かってもらおうと苦労しました。聖書の中でイエス様は「貧しい人々は幸いだ」(ルカ6:20)といっていますが、この逆説(ぎゃくせつ)はすごいと思います。最後の礼拝で、みんなに見せた画家ルオ-のイエス様の顔も思い出して下さい。保育園で聞いたイエス様のお話は、大人になってもきっと心の中で生きているでしょう。 岩井健作


 こんな文章をいれてもらいました。キリスト教精神による保育園を出た子供たちはお話の内容などは忘れてしまうでしょうが、お話を含め、暗唱した聖書の言葉・賛美歌やお祈りなどから、体で受けたものが見えない力になって子供たちに付いて回ることだと思っています。

3.手元にある本

『おはなしのおくら - 実録幼稚園の礼拝』(水野誠、聖和大学キリスト教と教育研究所 2000/12 発行)。

 水野さん(1928-1997)は青山学院神学科基督教教育、晩年は農村伝道神学校、聖和大学で教授を務めた人。この本は鶴川シオン幼稚園の礼拝のお話をテ-プ起こししたもの。こどもの反応の声まで記録してあり臨場感がある。旧約24編、新約58編のお話がのっている。子どもに聖書の物語を伝える努力がにじんでいる。


『幼児に話すイエス様のお話 - イエスに関する42の聖話』(高野勝夫、キリスト教視聴覚センタ- 1986/12 発行)

 ユニオン神学校で学び、頌栄保育学院短大教授、日の本学園学長、神戸保専院長、神戸教会員。「聖書テキスト本文解説、目標・取り扱い方・適用、そして聖話(実際に話す原稿)」が内容。背景の神学はオ-ソドックスで敬虔深い。聖書注解はテキストの理解に役立つ。保育の学びを始め(初めて)聖書に接する学生・保育者を念頭においた労作。


『CS幼稚科お話し集』シリーズ8冊、『お話しとアイディア集』シリ-ズ12冊、『お話しがいっぱい』シリ-ズ10冊。合計30冊が1972年から2003年まで発行されている。編集 AVACO業務部、発行者 財団法人キリスト教視聴覚センター。

 AVACOは毎年、毎週子どもに渡すことのできる聖句カ-ド(カ-ド帳付き)を発行しているが『お話がいっぱい』シリーズのカリキュラムはこれに連動している。執筆者は現役・第一線の牧師、教会学校教師、幼稚園園長・主任・教諭など。各個の教会の教会学校(日曜学校)の朝を想像させる内容が盛り込まれている。


『説教101の泉』(社団法人キリスト教保育連盟 1991発行)

 旧約41編、新約59編。「中心聖句、要解、説教の例、参考(別なメッセージの捕らえ方、別案)、その他の留意点(関連聖書箇所、子どもさんびかの選択例)」などがのっている。教団教会、教団関係幼稚園の第一線現場に携る人による執筆。信仰理解、神学の幅が各人によってあるので、逆に多様な現場を想像させる。今『教師の友』はどうなっているのでしょうか。不明にして遠ざかっていますので、教えて下さい。


 その他、聖書のメッセージを自分なりに読み取って、絵本・児童文学・近代日本文学などを媒介として伝達するとすれば、お話で扱う領域は広範な広がりをもつ。私は、自分の幼少時代や今の生活も伝達の媒体として取り入れることが多々ある。その場合、聖書のメッセージを自分の生きる状況から、自分なりに鮮明に受け取っておくことがまず大事ではないか、と思っている。 

4.まとめ

「子どもへのお話」は、聖書物語が中心になることが多いのですが、聖書テキストは、その時代状況とのかかわりで理解され意味をもちますから、「子どもと環境」「子どもと教育」「子どもと家庭・家族」「子どもと遊び」「子どもと戦争」「子どもと死」「子どもと貧困」「子どもと絵本」「子どもと歌」「子どもと健康・病気」……あげれば切りがありませんが、それぞれの文脈とのかかわりで聖書テキストとの呼応関係を浮かび上がらせなくてはならないと思います。

 大切なことは、子ども・孫・親戚の子、知人・友人・教会員の子、保育所・幼稚園の子、など、子どもと友達になっていることではないでしょうか。

 そして忘れている自分の子ども時代の経験への想起を促されることではないか、と思います。

 この間、H教会に応援にゆきました。70年代教団「闘争」を経て、70歳代の思想堅固な人々の教会です。若い人が続いていません。もちろん教会学校などはありません。特別なプログラムも持ちにくいだろうから、毎日曜日の礼拝に、どこかの家庭の子どもを探し出し「子どもへのお話」という子どもの居場所を作ることができれば、教会が明るくなるのでは、とおすすめしてきました。

 子どもの明るさは「救い」です。

⬅️「岩井健作」の宣教学インデックス

error: Content is protected !!