2004年2月15日 中濃教会 礼拝説教
(2005年版『地の基震い動く時』所収)
ピリピ人への手紙 2章6–11節
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台湾民話・呉鳳(ごほう)の話
台湾の民話です。
台湾の蕃人には(蕃人という言い方が適切かどうかわかりませんが)かつて、人の首を取ってお祭りに備えるという風習があった。阿里山蕃の役人になったばかりの呉鳳(ごほう)は、なんとかして、自分の治める部落だけでも、この悪い風習を止めさせようと思って、いろいろ苦心をした。
「人を殺すことはよくないことである」
こう言って呉鳳は、しばしば蕃人に説き聞かせた。しかし、蕃人はお祭りが近づくと、ぜひ首を供えねばならないと申し出た。
呉鳳は尋ねます。
「去年取った首があるはずだ。一体いくつあるのか」
「40余りあります」
「それでは、その首を大切に残しておいて、これから毎年一つずつ供えることにするがよい」
蕃人は諭されてしぶしぶ引き下がった。呉鳳は元来、情深い人で、蕃人を非常に可愛がったから、蕃人も次第になついて、後には呉鳳を親のごとくに慕うようになった。
こうして、阿里山蕃だけは、しばらく首取りのことも止んで平和が続いたが、他の部落では毎年お祭りがある度に首を取って供えていた。それを見るにつけ、阿里山蕃の蕃人の心は動いた。
40余年はいつの間にか過ぎて、もう供える首が一つもなくなった。
蕃人はそのことを呉鳳に申し出た。
「今年こそ新しい首を供えなければならない」
呉鳳はなだめます。
「もう一年待ってくれ。人を殺すのは良くない」
翌年も翌々年も同じことが繰り返された。蕃人はそろそろ呉鳳の心を疑うようになった。そうして4年目には、もうどうしても呉鳳の言うことを聞こうとはしなかった。
呉鳳は答えた。
「それほど首が欲しいなら、明日の昼頃、赤い帽子をかぶって、赤い着物を着て、ここを通る者の首を斬れ」
翌日、蕃人達が役所の近くに集まっていると、果たして赤い帽子をかぶり、赤い着物を着た人が来た。待ち構えていた彼らは、たちまちその人を殺して首を取ってしまった。意外にも、それは呉鳳の首であった。親のように慕っている呉鳳の首であった。蕃人達は声をあげて泣いた。彼らは呉鳳を神に祀った。そうしてそれ以来、阿里山蕃には首取りの悪習がぷっつりとなくなった。
この話の最後で「彼らは呉鳳を神に祀った」とありますが、彼らはもうそれしかできなかったのであります。
ここに見られる救済論は、呉鳳が死ぬことを通して彼らをあの悪習から救った、ということにあります。イエスの弟子達が、イエスを救い主として崇めたのも、このようなイエスの死を通してであったのだと思います。
問題はそれからです。それを出来上がった「贖罪論」として信じていればよい、ということではないのです。「贖罪論」を信じ込むということと、「贖罪(あがない)」を自分のこととして生きるということは、無限に遠いことです。
不条理の死の重さを負って
阪神淡路大震災9年目が巡り来る1月17日を迎え、改めて地震で亡くなった6433人のことを覚えます。不条理の死です。不条理というのは、意味づけができないということです。その中でも、将来に多くの可能性を持っていた子供たちの死は、本当に不条理の死です。その意味を尋ねることは、深山に分け入るごとくです。残されて生き始める者達が、これから一人ひとりの「子ども」の死の重さを負って生きる以外にありません。重さを負って生きるとは、「なぜだ」という問いを負って生きるということでもあります。
もう2年前のことですが、長田区の日吉町にあるG喫茶店に立ち寄ってみました。この辺りは、とても地震がひどかった所です。喫茶店には運よくマスターのMさんがいて、久しぶりに声をかけました。
「和雄君も芳子さんも、もうすぐ7年になりますね」
「そうなんですよ。このあいだ、芳子宛に成人式の衣装の広告がダイレクトメールで送られてきましてね。人の気も知らないでって、家内が怒って破って捨てていました」
こんなお話が返ってきました。
「生まれた年月日を探し出して、ダイレクトメール用に売る会社があって、それを使って衣装店が商売しているのでしょうね。地震なんかなかったことになっているんです」
自分たちの苦しみが素通りされていくことに、怒りとも、やるせなさともつかない気持ちを投げかけてくださいました。
あの日、15歳と12歳だった和雄君と芳子さんは、1階に寝ていました。ご両親は2階でした。そうして二人のお子さんは帰らぬ人になったのです。あの時の様子を、現場でつぶさにお聴きしました。
「まだ、本当には子供たちと向かい合っていないんでしょうね。その分、毎日を忙しくしているのです」
お店は増築されて、前より大きくなっていました。
「あの子たちの思い出に建てたのです」
そこは2階が崩れ落ちた場所でした。
日常の長い営みを通して、なぜ、この子が死んで、私が生きていかなくてはならないのか。子どもさんの死と、常に向かい合うということは実存的な時間で、忙しくしているというのは日常的時間で、その二つの時のせめぎ合いを生きておられるのだなと感じました。
死の事実が、こちらの存在の意味を問い続けています。しかし、問われることはしんどいことなので、いつの間にか無意識のうちに、問わないようにして、忙しくしてしまっているのも本当なのだなと思いました。
イエスの死の二つの受け止め方
さて、今日は、私たちはイエスの死にどう向き合っているのかを、聖書から見直してみたいと存じます。
イエスの死をどう受け取るか、全く違う二つの受け取り方があります。
一つは、遠藤周作の『イエスの生涯』に記されている受け取り方です。神の子として受難の道を歩まれたのだ。神の子羊として贖罪の死を受苦的に受けられたのだ、という考え方です。この場合、イエスの死が持っている不条理というものが消えてしまいます。
バッハの「マタイ受難曲」もそのような解釈です。それは新約聖書の「マタイによる福音書」がそのような解釈だからです。キリスト教の正統主義の信仰告白もそのような解釈です。「御子は我ら罪人の救いのために人となり、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神に捧げ、我らの贖いになりたまへり」とあります。これは一つの出来上がった救済論です。それはそれで、完結しているのです。
こういう救済論に寄りかかってしまうことが、本当にイエスの死と向かいあうことなのだろうか、という問題提起を「十字架の死に至るまで」という言葉は持っているのではないだろうか。パウロ自身が「ピリピ人への手紙」で言っているのではないでしょうか。
大貫隆著『イエスという経験』(岩波書店)は、そのような問題提起をしている本です。イエスは自分の死の意味がわからなくなって絶叫して神への問いかけをしながら死んだというのです。実は、歴史のイエスについて書いている荒井献、田川建三、佐藤研、という方々は、多少の違いはあるのですが、皆そのようにみているのです。
このことを教会で受け止めることは大変なことです。「ピリピ人への手紙」のキリスト論には、「死なない神」の救済論と、死を通さなければ救済はない、という救済論とのせめぎ合いがあります。原始教会の復活信仰が、初めはイエスの死という出来事に圧倒されて出てきたのに、いつの間にか、するっと平気で、解釈される死になってしまった。出来上がった信条を信じれば良いということになってしまったのです。
このことを、解釈された死からみるのではなく、あのイエスの死からもう一度見直そうというのが、「十字架の死に向かい合う」ということであります。「死に至るまで」と「十字架の死に至るまで」との質的違いがあります。
大貫さんは、こんな例を使ってそのことを言っています。これは野球の話ですが、「阪神の物語を9回の逆転劇から見るか、ハラハラする試合運びをたどってみるかの違いです」。解釈された「キリストの死」から「死」を見るのではなく、歴史に生きた一人の「人間イエスの死」から見るかの違いは大きい、ということを言っているのです。そのことはとりもなおさず、私たちが現代の「不条理な死」に向き合うということです。
第二次大戦下、ナチスの強制収容所で、見せしめのために無造作に人が殺されました。首を吊られて、引き上げられていく仲間を見て、一人の人が「いったい神はいるのか」とつぶやくと、そこに居合わせていた牧師が「神は今、目の前に吊り上げられている、あれが神だ」と答えます。
「十字架の死に向かい合う」ことなしに、私たちは神とは出会わない。これが、不条理な死と向き合うことは神と向き合うこと、十字架の死に向き合うことが神に向き合うことと繋がっていると信じていきたいと思います。
祈ります。
神さま、私たちは安住できる救済論を求めてしまいます。でも、災害や戦争での不条理の死を目の当たりにして、それと向き合うことがあなたの救いであることを、イエスの十字架の死ゆえに思い起こさせてください。この週を生きるために、主イエスのみ名によって祈ります。アーメン