「生きる」とは − 生きるとは、生かされること(2003 講演・頌栄短大)

2003.11.20、頌栄秋季キリスト教研修会 主題講演

(神戸・頌栄短期大学講堂、川和教会代務牧師 健作さん70歳)

Ⅰ.

 3年保育に入園した“あっちゃん”は、お母さんに絵本を読んでもらうのが大好きな男の子です。お母さんは“あっちゃん”にせがまれて、絵本の世界にぐんぐん引き入れられていきました。“あっちゃん”が好きな本はいくつもあります。『三匹のやぎのがらがらどん』『あおくんときいろちゃん』なんかは大好きです。

 お母さんは、幼稚園の先生に「絵本って素晴らしいものですね。こどもと一緒にいるから絵本に出会って、この頃とても生き生きと、喜びを感じているんです」。こんな言葉を漏らしていきました。

 皆さんは、保育を志して勉強をしているのだから、絵本を読む喜びをご存じですよね!

 今日は、“生きるとは”という主題なのですが、この主題で、何でもいいから、絵本を探してきてほしいといわれたら、皆さんは、どんな本を探してきますか?

私は、そんなことを考えると胸がわくわくするのです。なんたってあれもこれもひっぱりだしたいのですから。

 そこで、今日は、最初に一冊の絵本を取り上げることにします。この絵本は、もうずっとずーっと前、私(園長)がある幼稚園(神戸教会付属 石井幼稚園)の生活発表会で年長組が劇あそびをしていたのを見させて戴き出会った絵本です。

ひとつがふたつ』という本です(作・小沢正、絵・富永秀夫、おはなしチャイルド第8号)。(参照:「いっぴきのとらごろう」1981 神戸教會々報07)

 ある日、虎のとらごろうが動物たちと遊んでいると、狐が一つのものを二つにする機械を引っぱってきました。動物たちは、リンゴや人参など好きなものを二つにしてもらいました。とらごろうは何も持っていなかったので、考えた揚げ句、自分を二匹にしてもらいました。「僕がお昼寝をしている間に、もう一匹の僕に食べ物を探してもらえばべんりだものね」。

 ところが二匹になってみると「僕がほんとうのとらごろうだ、お前が食べ物を探してこい」と取っ組み合いの喧嘩になってしまいました。

 困った狐はとうとう二つのものを一つにする機械を作りました。動物たちは力を合わせてとらごろうを機械に入れ一つにします。やっと一匹になれたとらごろうはやっぱり一匹の方がいい。昼寝をしている時は食物を探せないし、食べ物を探している間は昼寝はできないと、喜んでその晩は竹藪でぐっすり寝たというお話です。
 劇遊びでは、二匹のとらごろうを動物たちがつかまえるところを、子供たちは大騒ぎをして楽しんでいました。少し理屈っぽく考えますと、ここから三つのことを考えさせられます。

1.ひとつは、二匹になったとらごろうは喧嘩をするのですが、どちらがほんとうのとらごろうかということです。難しい言葉で言うと、アイデンティティー(自己同一性、自分自身であること)の問題です。ほんとうの自分とは何だろうということです。例えば、皆さんは、美味しいものは食べたい。でも太るのは困るなんて、自己分裂を起こしたことはありませんか?ほんとうの自分はどっちなのでしょうね。

2.二番目に、とらごろうは一匹に戻るのですが、それには狐の力や、動物たちの協力がなければ、一匹に戻れなかったということです。とらごろうを生かしたのは動物たちです。とらごろうは生かされたのです。動物たちの協力がなければ、アイデンティティーを取り戻すことは出来なかったのです。

3.三番目に、一匹になったとらごろうの生き方です。寝ることを選ぶのか、食べ物を探しにいくのか、選んで生きる必要があるということです。生きるとは、決断の積み重ねです。決断しないことは生きることにはならないのです。

 この絵本の最後のところは、とらごろうは、選んで生きる生き方をしたとき、安心してぐっすり寝たということです。そこには喜びがある、と絵本の作者は結んでいます。

Ⅱ.フロム

 さて、今、とらごろうは二つの欲望、食べることと寝ることと、どっちも充足しようとして自己分裂を起こしてしまって生きられなくなってしまったのですが、これはとらごろう一匹だけの問題だけではなくて、今の時代や社会の問題でもある、ということを分析した人がいます。

 エーリッヒ・フロムという人です。フロム(1900-1980)はドイツ生まれ、アメリカに亡命した社会心理学者です。

 この人が『生きるということ』(エーリッヒ・フロム、佐野哲郎訳、紀伊国屋書店 1977)という本を書いています。もう30年も前の本ですが、今読んでみても「生きる」とはということについて、本質をついたことをいっています。「生きるということ」というのは翻訳の題名です。

 原書の題は「TO HAVE OR TO BE」という題です。【TO HAVE】というのは「持つこと」です。【TO BE】は「あること」です。

 フロムは、人が生きてゆくうえでの「持つことか」それとも「あることか」ということを、生きることの二つの基本的な在り方だと考えました。

 存在の仕方 ー財産、知識、社会的地位、権力などの所有に専念する《持つ様式 TO HAVE 》がわたしたちの時代の考え方では大きな力を持っています。もう一つは、生きることを「所有」から考えないで「あること」そのものが喜びである、《ある様式 TO BE》という考えです。皆さんは、阪神淡路大地震を経験されたでしょうが、地震直後のことを考えてください。ものを失っても、生きていることそれ自身が「よかった」という実感でした。

 フロムはいろいろな例を挙げています。例えば、大学で授業にでているとします。「持つこと」の価値観に生きている人は、授業から沢山の知識を得ようとして、ノートをとります。テープレコーダーで知識を逃さないように記録します。知識を「持つこと」に集中します。それを使って更に、高い地位だとか、高い収入を持ちます。持つことの価値観に生きると際限なく欲望は進みます(心の安心のために宗教を持ちます)。

 もう一方《ある様式 TO BE》では、授業にでて、そこに「ある」ことは、教授がいったことを知識として持つのではなく、講義で扱われる問題について思い巡らします。それに疑問を抱いたり、聴いてそれに反応して、自発的に考えたりします。記憶する知識の獲得ではなくて、授業が終わってみると、前とは違った、新しい自分を発見します。啓発され、刺激され、自分が変えられ、あるいは変わる経験をします。これが《ある様式 TO BE》です。

 頌栄という学校が、どうして宗教週間を設けているかというと、これは宗教の知識を持つ時間ではなくて、《ある TO BE という様式》で過ごす時間をみんなで大切にしているということです。生きることの喜びが確信できるような存在様式を求めているのです。《ある様式 TO BE》を区別している。そうして高度に産業化・工業化・技術化の進んだ現代では《持つ様式》が当たり前になってしまっている、とフロムは言っています。

 いつの間にか《持つこと》が自明の前提とされて《ある様式 TO BE》を上回ってしまう点に問題があることを指摘しています。

 例えば「愛」という人間にとって最も精神的な在り方でも「愛を持つ」ことになると相手を生かさないで、相手を殺してしまいます。あるお母さんですが、こどもを愛しているので、どうしてもよい子にしてやりたい、その親におしつぶされて自殺をしてしまったというお話は、たくさんあります。

Ⅲ.

 イエスの弟子ペトロにとって「生きる」とは。さて、聖書の中の一人の人物に光を当てて、《持つ様式》から《ある様式》、つまり価値観を《TO HAVE》から《TO BE》へと変えた努力の道筋を見てみましょう。イエスの一番弟子ペトロです。今日読んだ聖書をたどってみます。

1.新約聖書 マルコ福音書 1章16節−17節

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。

 ここのシモンというのは、ペトロのことです(イエスの弟子になる前の元の名前)。魚取りでした。「働けど働けどわが暮らし楽にならざり」とかつて石川啄木が歌ったように、ペトロの暮らしは厳しかったのだと思います。ガリラヤの湖の岸辺で神様のことをお話ししていたイエス様のことはずっと聴いていたと思います。

「野原の花がどうして育っているのかを考えてみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモンでさえこの花の一つほどにも着飾っていない」(マタイ 6章29節 新約聖書11ペ−ジ)。

 よほど魅力があったのでしょう。イエスはペトロに不思議な声をかけます。

「私に、ついてきなさい。人間を取る漁師にしよう」

 魚との関係は《TO HAVE》だったのですが、「人間をすなどる」とは《TO BE》の関係をいっています。ペトロは「網を棄てて」イエスについていったのです。「棄てる」ということは《持つ様式 TO HAVE》の関係をやめるということです。

 しかし。ここで、ペトロは目に見えるものを棄てる事ができましたが、その代わり、目に見えない、心の安心や、心の「救い」を「持とう」としていたのです。イエス様という人そのものを自分の物にしようとしたのです。

 だから、イエスが子どもたちを祝福しようとした時「イエス様は価値のない子どもなんか相手にはしておられないのだ」といって、こどを追い払ってしまいました。
 イエス様は、それに憤って、ペトロを叱っています。

 ここ(頌栄短期大学)にある田中忠雄先生の絵(「イエスと幼子」)を見る時、ここには描かれていませんが、私は叱られているペトロの事を思います。

 私たちだって、ほんとうにお友達がいたらいいなと思う時、自分の都合で利用するだけではお友達にはなれません。《持つ様式 TO HAVE》の関係では、お友達を所有することは出来たとしても、《ある様式 TO BE》の関係でお友達にはなれません。

 そんなことを語っている絵本があります。『泣いた赤鬼』です。

 赤鬼は人間とお友達になるために、知らないあいだに、青鬼を自分の都合でしか見れなくなってしまっていたのです。青鬼との関係が(赤鬼の都合だけが、表に出てしまっている)《TO HAVE》の関係になってしまっていました。赤鬼にとって青鬼の友情は、青鬼が遠くにいなくなって、初めて分かったのです。青鬼は、赤鬼のことを考え、自分を棄てたのです。青鬼は、赤鬼との関係では(強調)自分を棄てることで、赤鬼の「ほんとうの友達に出会った」のです。ここには逆説があります。

 ペトロは、物を棄てることまでは、分かったのですが、今度は、目に見えない物を「持とう、持とう」としていました。イエスに従っていながら《TO BE》の関係ではなかったのです。

 イエスは、ペトロにこんなことを言っています。今日は、プリントには載せてありませんが、とても大事なイエスの言葉です。

2.マルコ 8章34節から36節(新約聖書 新共同訳 77ペ−ジ)です。

「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。』

 これは、逆説です。聖書のことを分かろうと思ったらどうしてもこの逆説を、通ることが必要です。

 命というものは、失って初めて生きる。

 聖書は逆説の書物です。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24 新約聖書 新共同訳 192ページ)

 人というものはいくら言われてもほんとうに分かるものではありません。親が死んでいなくなって、初めて親の言っていたことが分かる、というものです。
 さて、ペトロもそうでした。

3,「泣いたペトロ」

 あれほど、慕ってきたイエス様は、当時人々から蔑まれ、社会から切り捨てられていた病気の人や、遊女や、今の被差別部落と等しい扱いを受けていた人たちに、近付いて親切にしました。それはユダヤの法律、律法に違反することでした。そこで官憲に捕らえられてしまいました。

 捕らえられる少し前、ゲッセマネの園で祈っておられました。悩める人たちと一緒にいるということ、つまり、この人たちと《TO BE》の関係になることは、この人たちのために命を捨てることです。それが、ほんとうに神のみこころであるのか、イエス様も悩みました。そのことを祈ったのです。その時、一緒にイエス様の苦しみを共にしてほしいと思って、ペトロを連れて行きました。頼りない弟子ですが、それでも一緒にいること《TO BE》をイエス様は大切にされたのです。

 そこのところを聖書で読んでみましょう。マルコ 14章37節−42節 新約聖書 新共同訳 92ページです。

「それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。『シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。』更に、向こうへいって、同じ言葉で祈られた。再びご覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠たかったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て。行こう。見よ、わたしを裏切るものが来た。』

 頼りないペトロに「もうこれでいい」といっているところに注目してください。
 イエス様にたいして《TO HAVE》の関係でしか生きられなかったペトロに「それでいい」といっているのは「許しが」与えられているということです。

 マルコ福音書14章71節−72節(94ページ)を見てください。ペトロがイエスを裏切る場面です。

「すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。」

 イエス様とあんなに一緒にいたいと言っていたペトロが、イエス様が権力者につかまってしまうと、裏切っていまうのです。
 聖書では有名な話です。私たちは、ここのところで、自分もペトロと同じであることに気が付くと、辛く悲しい気持ちになります。ほんとうは《TO HAVE》から抜け出して《TO BE》の生き方になろうとして、なれない、自分の腑甲斐無さに泣くのです。赤鬼が泣いたように、泣くのです。ペトロは泣きました。

 そんなペトロをイエス様はご存じだったのです。

 でも、そんなペトロをイエス様は必要とされて、ヨハネ福音書21章17節(211ページ)では、こんなことをいわれています。

「ペトロは、イエスが三度も『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。』」

イエス様はペトロの何もかもご存じだといっています。くずおれたペトロも、生かされて、生きるのです。だから生きる事は、生かされることなのです。

Ⅳ.

「牧師生活・幼稚園園長生活を長くしてきましたが、生きてきたという思いよりも、生かされてきた、という思いがわたしには強くあります。そんな経験をお話しします。

 私を子どもの世界に連れ込んだ「やすあき君」のお話をします。

 白いパラソル。平井信義先生のお勧め。目が合わない(情緒障害・多動)。あっというまに印刷室のインクベタベタ。現場の教師のボイコット。やすあきちゃんとけんさくちゃん(私)のクラス入り。クラスの大混乱。野菜の歌。学習機。「北風と太陽」。大粒の涙。わたしが実は北風だった。幼稚園の園長をやっている事は、全く自分が生きているのではなくて、生かされているのだ、という事をしみじみと味わい、泣きました。沈黙と祈り。卒園式の笑顔。
以来、多くの子供と出会う事が出来ました。(より詳しくは「幼子と教会 2002」

Ⅴ.

「一つの詩」を読んで終わります。

「生きるとは、生かされること」

生きるとは、生かされること
生かされるとは、出会うこと
出会うとは、薔薇色のようで
ほんとうは自分につぶれること
つらいけれどここは堪えて
破れっぱなしでいよう
ひっくり返ってみれば
かすかな期待が魂の奥底に
ほのかな灯のように揺れ
時は流れる

生きるとは、生かされること
生かされるとは、期待すること
期待することは、待つことなのだと
おぼろげな輪郭
そこまで来れば、と声がする
待つことは耐えること
耐えることは絶望しないこと
絶望しないこととは、信じること
信じることとは、祈ること

生きることは、生かされること
きっと、きっと、私を見つめている誰かがいる
きっと、きっと、私のために祈っている誰かがいる
きっと、きっと、私を信じている誰かがいる
きっと、きっと、私に絶望していない誰かがいる
きっと、きっと、私に耐えてくれている誰かがいる
きとき、きっと、私を待ってくれている誰かがいる
きっと、きっと、私に期待してくれている誰かがいる
きっと、きっと、私に出会おうとしている誰かがいる
きっと、きっと、私を生かそうとしている誰かがいる

生きることは、生かされること
その関係の彼方に
まなざしを向けよう
星を仰ぐように
そして、ささやこう
風の息吹きに誘われるように
叫ぼう
燦々と太陽の輝く青空に向かって
深呼吸を繰り返しながら
私を包む流れない時

「あなたはどこだ」「あなたはどこだ」
「私は、あなたがひっくり返って
もう駄目だ、もう駄目だ
と、うそぶいていたとき
その傍らにず−っといつづけていたのだよ」
と声がする。
「傍らにですか、わたくしとですか」
あの時いたのはたしか、家族、そして友達
そうだ、いろいろな人と出会っていたのだ

さわやかな風がわたしの頬をなでて通る
鈍いこころの肌に優しく触れながら
「生きることは、生かされること」
低音がベースをとる
「あなたは誰だ、あなたは誰だ」
「私の名はイエス、君の名はもう知っているよ」

(サイト記)最後の詩の作者不明。健作さんが思い出された時に、確認します。

頌栄短期大学(外部リンク)

頌栄短期大学でのチャペルアワーメッセージ(現在7点)