いっぴきのとらごろう

いっぴきのとらごろう

神戸教會々報 No.98 所収、1981.12.10

(健作さん48歳)

 昨年卒園した石井幼稚園の子たちが生活発表会で演じた劇「ひとつがふたつ」のことがいつまでも心に残っていたので、そのおはなしの絵本(作・小沢正、絵・富永秀夫、おはなしチャイルド第8号)を借りて読みました。物語はこうです。

 ある日、虎のとらごろうが動物たちと遊んでいると狐が一つのものを二つにする機械を引っぱってきました。動物たちは、りんごやにんじんなど好きなものを二つにふやしてもらって大喜びでした。とらごろうは何も持っていなかったので、考えたあげく、自分を二匹にしてもらいました。
「ぼくがひるねをしているあいだに、もういっぴきのぼくにたべものをさがしてもらえばべんりだもんね」というわけです。
 ところが二匹になってみると、どちらも「ぼくがほんとうのとらごろうだ、おまえがたべものをさがしてこい」と言ってとっくみあいをはじめました。困った狐はがんばって二つのものを一つにする機械を作り、動物たちは、みんなでちからをあわせて、二匹のとらごろうを機械に入れて一つにします。
 出てきたとらごろうは「ほんとうのとらごろうはぼくだけだ。だから、ひるねをしているあいだは、たべものをさがしにいけないし、たべものをさがしているあいだは、ひるねはできない。でも、ぼくがにひきだったら、いちにちじゅう、けんかばっかり。やっぱり、いっぴきのほうがよい」といってその晩は竹藪でぐっすり寝たということです。

 私はこれを読みながら三つのことを示唆されました。

 第一は、自分が二つに分裂してけんかしていること、つまり自己同一性(アイデンティティー)の喪失に気づいてるだろうか、ということ。例えば快適でありたいということと人に迷惑をかけてはいけないということの分裂をどれほど自覚しているだろうか、と思うのです。繁栄の反面に公害、アジアからの収奪、弱者の切り捨てがあるなら、その葛藤を適当なところで収拾してしまっている自分を恥かしく思わされました。とらごろうのはてしない自己分裂が実はありのままの自分の姿ではないだろうかということです。そしてロマ7:24を想起しました。

 第二は、一匹のとらごろうにもどるために、動物たちが力を合わせるという場面です。一人の人間がこれが自分だ、という自分自身(主体)をとりもどすためには、みんなの力(共同性)が必要なのだということを知らされます。「草の根」から支えられるということでしょうか。使徒行伝18:9-10をふと思い起しました。伝道者パウロの伝道における主体も、その町の「民」に支えられていました。そして、その「背後にいます方(神)」への思いは、「みんなの力」にふれ合う経験を通して確かめられていくものです。

 第三には、とらごろうがひるねとたべものさがしを同時に望むのではなく、そのどちらかを選んでいきることをよろこんでいるという点です。あれもこれもと二心になることからの解放があります。

 ぐっすり寝たとらごろうはどんなとらの生活を展開するでしょうか。人間の悲惨を自覚しつつも、神による共同性を信じて意志的、決断的な生き方へと招かれている信仰者の生き方を暗示すること深い物語です。


(サイト記)本文中割愛されている聖書テキスト

ロマ7:24
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。

使徒行伝18:9-10
ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。


(サイト記)1981年クリスマス号の紙面表紙を飾るカットです。神戸教会付属の2つの幼稚園、石井幼稚園、いずみ幼稚園の園児の合作です。健作園長48歳。