2003.10.12、川和教会礼拝説教
(川和教会代務者牧師、健作さん 70歳)
フィリピの信徒への手紙 1:1-6
今朝読んでいただいたのはフィリピの信徒の手紙の最初の部分です。フィリピの教会は使徒パウロにとって麗しい関係にあった教会だといわれています。パウロが伝道の困苦の生活にあったとき、物心両面で援助をした教会です。4章15節ではこういっています。
「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州をでたとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした」と。
パウロがこの教会のことをいかに感謝の思いで思っていたかが分かります。これは挨拶に続く1章3節の言葉でもよく分かります。「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し」とあります。思い起こす(”ムネイア” パウロ書簡のみ)というのは祈りにおける心を込めた想起を意味する術語です。「わたしは、あなたがたが(わたしを)覚えているしるしのすべてについて、わたしの神に感謝している」という謝辞の意味に理解する解釈もある(G・キッテル)。
いずれにせよ、これは漠然と人を思うというのではなく、祈りにおいて覚える、祈りに際して名を挙げて執り成しをするという覚え方です。
パウロはこの書簡を記した時、牢獄に捕えられていました。ですからこの書簡は獄中書簡と呼ばれています。
パウロが獄中にあるということで、フィリピの人たちはパウロのことを心配していました。これは当然の人情でしょう。あるいは、パウロがいなくなったことによって指導者がいなくなり、不安だったかもしれません。伝道が停滞するという心配があったでしょう。パウロにとって、自分のことを心配してくれる人がいるというこは、心強いことですし、またありがたい事です。フィリピの教会はそのことでは一番身近な教会でした。
しかし、パウロにとっては、牢獄に入れられたことは単なる不幸やマイナス要件だけではなかったのです。皆が心配をしてくれればそのレベルでよいということではなかったのです。パウロは1章12節のところで「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」といって、その意味を続けて説明しています。その様な捉え方をフィリピの教会はしていないのです。
パウロがフィリピの教会の信徒の人々のことを「思う」というのは、パウロのことを心配している人間的、常識的、そして人情溢れる人々だといって満足しているわけではないのです。むしろ、このようなところだけに止まって、その域をでないフィリピの信徒の現状を思っているのです。ある意味では、人情としてはとても親しいのに、それでも、信仰の把握からいうと、まだまだな信徒の人たちをどの様に、配慮したらよいかを、心に留めているのです。「思い起こす」と先程言いましたが、フィリピの人たちはみんないい人たちなのに、その人たちがもう一つ信仰の深みに進んでくれたらなあ、という気持ちで「思い起こして」いるのです。平穏なフィリピの教会は信仰厚い教会です。しかし、「投獄は福音の前進なのだ」という、信仰の逆説には気付いていないのです。そこに、パウロは心の憂いをもっているのです。「投獄が福音の前進だ」というには少し論理の飛躍があります。しかし、考えてみれば、パウロの不在がみんなの自立性や自主性を養い、みんながパウロに代わって語りだすことを一つみても、そこには前進があります。しかし、このような発想でフィリピの人たちは考えてはいなかったのです。
それは、自覚症状のない病のようなものです。NHKの朝の「生活ほっとモーニング」の番組では、健康のことをよく放映しますが、大変分かりやすくからだの内部、病気のメカニズムなどを説明します。自覚症状のないのに病気が進行しているのがいかに怖いかを知らせてくれます。私もつい先頃、行政が奬めている健康診断に行ってきました。この年齢になると、自覚がないままで、自分では問題にも思っていなかったところでも一応は検査をされておくとよいでしょう、などといわれると、健康とは大丈夫と思っていても分からないものだなと教えられました。
パウロにとっては「あなたがたを覚える」ということは、実は、フィリピの教会の伝道と牧会に携わってきて、その教会の信仰のなお足りないところを覚えるというです。このことは、取りも直さず、パウロの自分自身の限界と力のなさを覚えることと裏表です。自分にふりかかることです。自分のふがいなさの自覚です。喜ばしいことではないのです。
私なども、一つの教会を20年余り牧会してきて、その教会がたとえ表面上は問題なく成長しているようで、しかもなお、信仰の逆説が生きていない事を思うと、自分の無力さをつくづく思います。
パウロはコリント教会ならいざ知らず、フィリピの教会の逆説を含まない信仰のあり方を自分の鏡のようにみたのです。かつて彼が改心を経験した時、自分は「無力、惨め」だとつくづく思ったことがローマの信徒への手紙に、記されています。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。きっとその様な心境をまた味わっていたに違いありません。
しかし、パウロはそのような「死に定められた体」から命の体験をしているのです。その救いのことを思うと、このフィリピの人々たちに対して神は必ず救いの業を成し遂げて下さるに違いないという確信を持っています。
それが、フィリピ1章6節のあの有名な言葉です。「その業を成し遂げてくださる」といっています。「その業」とは「よい業」、「福音に与からせている」ことです。それではじめて、あの4節の言葉があります。「あなたがた一同のために祈る度に、何時も喜びをもって祈っています」。その喜びは、決して麗しい関係だという現状肯定の喜びだけではないのです。たしかにそれはあります。しかし、それは表と裏の表です。裏は、現状肯定ではない喜びです。必ず信仰の深みにまで導かれるという確信の喜びです。信仰の逆説が生きて実を結ぶに違いないという喜びです。
祈りには感謝の祈りがある一方で、執り成しの祈りがあり、また祈願の祈りがあります。また懺悔の祈りがあります。その他にもいろいろあると思います。感謝はストレートに喜びに繋がるかもしれません。しかし、執り成しや懺悔はどちらかといえば内省的な抑えられた祈りです。それらをすべて含めて、喜びをもって祈るということは、希望を抱く事ができる祈りだからです。喜びがあるから祈るのではないのです。「喜びをもって祈っています」とは「喜びと共に」という意味です。
祈りと喜びとは切り離せないのです。祈ることが、たとえどんなにつらい現実があっても、喜びなのです。
パウロの伝道者としてのすべてが、さらに信仰のたどって来た道筋がフィリピの教会の人たちに、そんなにすぐ分かるわけはありません。そういう意味では、パウロは麗しい教会との交わりにおいても孤独です。しかし、彼らのために、祈るということ自身がその孤独を破る喜びなのです。
わたしの経験したことですが、従兄弟同士が割と親しくて、よく従兄弟会をする家族があります。これは、世俗のことで、信仰とか教会には関係があることではないのですが、従兄弟の交わりが、その底のところで、ただ血のつなかりがあるというだけでなく、神の愛に繋がっているような繋がり方をしている家庭であって、麗しい家庭だな、と思ったことがあります。よく考えてみると、おばあさんに当たられるかたが、孫たちに、同じように接し、誰かを贔屓することなく、一人一人の個性を覚え、気遣いをして(例えば誕生日のお祝いのし方とか、入学や進学とか、なにか褒めてやることとか、病気の時とか)いるのです。そして、表にはでてこないけれども、一人一人を覚えて日頃から祈っているのです。祖母の祈りと従兄弟会が関係があるのだと、ふと気が付きました。祈りは、相手を知らなくてはできません。執り成しの祈りは特にそうです。なるほど従兄弟会の背後には、祖母の祈りがあったのだと思いました。もう、孫のために何かをしてあげるということはできなくなってからも、祈ることはできるし、わたしの役目だ、祈ることは喜びだ、といっておられた方の言葉が、わたしのうちには何時までも残っています。
もう30年前、韓国は独裁者の支配する国でした。多くの若者がそれに抵抗して投獄されました。1974年9月22日、カトリック明洞聖堂での集会で一人の母親が立ち上がって祈りを始めました。その祈りの背景には、子供を官憲とのぶつかりあいで失ったり、投獄されたりしている母たちがいました。そのことを記した書物に一人の母親の祈りが載っていました。
「神様が私たちを愛し、独り子イエス・キリストによって私たちをあなたの子として生かされ、また神のみ前に祈る特権を与えて下さったことを心から感謝いたします。
この席には、愛する子供たちを拘束されている多くの母親と、その悲しみを分かち合おうとする母親達とが心と思いを合わせて祈っております。どうかこの祈りが、その昔ソロモン王の祈りのように、真に神のみこころに適う祈りとなるようにして下さい。そして、私たちの求めるところにまさって、溢れるばかりの祝福を下さるよう、せつにお願いします。」
今、韓国は民主化されています。しかし、独裁政権が倒れるためにどれ程の犠牲がはらわれたかを思います。当時日本の『世界』という雑誌に、韓国から亡命してきた人が良心に満ちた励ましの論文を書いていました。誰だか分かりませんでした。イニシャルで「T・K生」とだけなっていました。わたしは当時からこの人はキリスト者だと感じていました。なぜならその文章は希望に支えられた祈りを感じさせる文章でした。もし、名を明かせばきっと暗殺されたかもしれません。20数年経って、それを書いていたのは私達も身近に知っていた、キリスト者の亡命教授であったことが知られるようになりました。民主化にはこのようなキリスト者教授や投獄された若者の母の祈りがあったことを知って、祈りの底力を覚えました。丁度一番厳しい時、わたしは牧師だというとビザがおりないのではないかと思い幼稚園長の観光ということで教会員の在日の青年や老人の訪問で韓国に行きました。「ガリラヤ教会」の金曜祈祷会に出席しました。官憲にはいわばアングラの集まりでした。しかし、その集まりは緊張のなかにも喜びの漲った祈りの会でした。韓国の将来を「喜びをもって祈っている」集まりでした。
教会が「御国を来らせ給え」という祈りをもち、また教会の枝が祈りの繋がりにおいて結び合わされる教会になっていきたい。そして、祈りにおいて繋がることを喜びとしていきたいと思います。祈ります。