主よ、ともに宿りませ(2003 川和・礼拝説教)

2003.9.14、川和教会 礼拝説教

(川和教会代務牧師 健作さん70歳)

ヨハネ福音書 14:25〜31(新共同訳)
 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行なっていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

 讃美歌に「主よともに宿りませ」という歌があります。1954年版現行讃美歌では39番、讃美歌21では218番です。歌詞はあまり変わってはいません。讃美歌21の方で、その第1節を、読みますと、こんな詩です。

日暮れて やみはせまり、わがゆくて なお遠し。
助けなき身の頼る 主よ、ともに宿りませ。

「日暮れて」とは、人生のたそがれにたってという意味なのでしょうか、いや、次に「わがゆくて なお遠し」とありますから、夜道を歩くように、人生の旅を続けて、闇が迫る中を先へと歩を進めようとしている様子です。この前半のフレーズには、自分の人生の状況が述べられています。しかし、そこには「なお遠い」という、自分の見通しがあります。遠くても、頑張ってやっていこう、いや何とか成るだろう、という淡い気持ちがあります。ある意味では、抒情の世界です。抒情というものは、誰かが、その気持ちを分かってくれるという、ほのかな期待があります。誰という訳ではありませんが、人のにおいがします。

 ところが、三つ目のフレーズは、様相が変わります。「助けなき身の」という言葉には、抒情の世界からもう少し追い込まれて、無力、失意、焦燥、孤立、落胆、寂寥、絶望の思いが出ています。思いというと、感覚の世界ですが、たんに感覚というより、助けのない自分の存在の自覚がそこにはあります。独りになった自分とでも言うのでしょうか、困り果てた自分とでもいうのでしょうか、弱い自分とでもいうのでしょうか。

 さて、「助けなき身“”頼る」とありますが、ここの属格の「の」は、主格的属格を表していて、「助けなき身“”頼る」という意味だと存じます。前半の抒情の世界に比べて、ここでは「頼る」と言っている主体がはっきりしていて、意志的な在り方を示しています。そうして、終わりのフレーズに続きます。「主よともに宿りませ」。この終わりの一句は、祈りの言葉です。ここまで見て来ると、祈りというものは、情や思いの世界のことではなくて、「私が頼る」と言う主語がはっきりした意思の世界に属することだといえます。

 さて、「主よ、ともに宿りませ」という祈りですが、この讃美歌では各節の終わりに、繰り返し歌われます。この繰り返し、リフレインで何を思い起こすでしょうか。特に「宿る」という言葉からの連想です。聖書に親しんでいる多くの方は、きっと、ルカ福音書の、24章29節を心に描かれると存じます。「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」という一句です。「エマオのイエス」と題される物語です。

 イエスが十字架につけられて、殺されてしまったので、失意のうちにあった二人の弟子が、エルサレムからエマオの村に下る旅の途中、見知らぬ旅の道連れが加わり、イエスについての話を聞かせます。エマオの宿で、食卓について、パンを裂いた時、二人の弟子の目が開けて、その見知らぬその人こそがイエス自身であるとわかったという、復活のイエスの顕現物語です。この場面は、聖書の事を知らない人達にも、画家レンブラントの「エマオのキリスト」という作品と共に親しまれています。

 この物語は、イエスが共にいるとは、どういう事か、という信仰を語った物語です。それは、パンを裂く食卓と共にいることです。そのことは、この前ヨハネによる福音書6章で学んだように、旧約聖書の過越祭のパンの意味を新しく理解していることでした。自ら十字架につけられてまでして、世の中から疎外され、仲間外れにされてきた人々と共に生きられたイエスの生涯が、パンに象徴されていて、パンを裂く時、イエスが私たちの最も苦しいところに、また最も苦しい時に、いて下さるのだという信仰を表しています。

 さて、今朝お読み戴いたのは、ヨハネによる福音書です。ヨハネを学ぶことは、共観福音書を学ぶのとは異なった味わいのある信仰を学ぶことになります。イエスが私たちと共にいることを、ヨハネは三つの事柄で教えています。

 第一は、弟子たちが、互いに愛し合うとき、そこにイエスが共にいることを教えます。ヨハネ13:34-35です。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。

 ヨハネは、隣り人を愛せ、などと大きなことは言わないのです。まず、弟子が、と言います。身近かな者、いつも一緒にいる者を愛することが、ヨハネにとってはまず修練なのです。“新しい掟とともに存在するイエス”をヨハネは教えます。

 第二は、「霊」としてのイエスです。ヨハネ14:15-19です。そこを読んでみます。

15節「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」

17節の終わり「この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたのうちにいるからである」

また、今朝読んで戴いたところも、そのことを語っています。
「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」

 第三に「イエスの名における祈り」によって、イエスは私たちと共にいることが述べられています。

14:13「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」

15:16「あなたがたがわたし選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけていって実を結び、その実が残るようにと、またわたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」

 勿論ここでいう、何でも与えられる、は自分の恣意的な思いが実現するということではなくて、神のみこころのあるところが、人間の行きづまりを超えるという意味です。イエスの我々と共なる存在形式です。

「イエスの名によって祈る」とは、私たちが自己拡張の延長上で祈るということではなくて、はじめに見たあの讃美歌のように「助けなき身が」なおイエスと共にあることを悟ることなのです。

 私は不思議ないきさつから、ある特別養護老人ホームを支える会の副会長を長年させていただきました。日本ホーリネス教会の牧師夫妻が、民生委員をしていた時に受け持ちの一人の老人の自殺を防げなかったという懺悔の思いから始めた「愛の園」という老人施設です。設立から約10年、話を聞けば、ひたすらただ信仰によって突き進んできたという道程です。

 危機と思われる出来事が幾つもありました。しかし、その都度何とか乗り切ってきました。お話をされにこられるのですが、来ていただいても無力な自分を感じるだけでした。しかし困っていながらどこか落ちついたのが印象的でした。もちろんいろいろな方がその都度現れて、ハラハラするところを助けてくださるのですが、その園長さんの「こういうことは、祈りにまで追い込まれて、途が開けるのでしょう」という言葉が心にのこっています。普段からお祈りはしている方です。しかし、なお「祈りに追い込まれる」といっておられるのです。その言葉が心にのこっています。

 恐らく皆様もそのようなご経験はおありと存じます。問題がどう解決したかというより「祈りに追い込まれる経験」が貴いのではないでしょうか。

「主よ、共に宿りませ」という祈りは、私たちが「互いに愛し合うときに」また「『霊』の働きを受けて真理を悟る時に」そして「イエスの名によって祈るときに」実現していくものだということを、もう一度心に刻みたいと思います。

 今、わたしたちにとって「互いに愛し合うこと」「霊に導かれて真理を語ること」「イエスの名によって祈ること」の切実なことは何でしょうか。
 それは、それぞれに異なると思います。しかし、その課題がない、という人は一人もいないでしょう。

「祈りにまで追い込まれるほどに」そのことに向かい合いたいと思います。
 無力であるがゆえに、今私は「パレスチナに救いを」「パレスチナに平和を」と祈らざるをえません。

 祈ります。

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