2003年7月27日 神戸バプテスト教会礼拝
説教要旨、週報掲載
(川和教会牧師代務者2年目、健作さん69歳)
コリントの信徒への手紙 第一 9章19〜27節
いつの頃からか礼拝に続けて熱心に出席しておられる女性がいました。ある日の帰りがけに教会の出口でその方の沈んだお顔に向き合ってしまって、ふと「お悩みをお持ちなのですね」とお声をかけたら、ポロポロと涙を流されました。その場では「お辛いでしょうね」と言っただけでした。やがて時を経て、その辛い話はいっぱいお聞きしました。そしてまた時が過ぎて「洗礼を受けたい」ということになり、その方なりのカリキュラムを立てて準備を始めました。「祈り」「礼拝」「教会」「社会」…と対話をしつつ学びを続けるうちに、「全部やってみるうちに身につくものなのですね」ということが分かっていただけて、しめたと思いました。キリスト教の身のつけ方は、ともすると教義や制度や礼典の意味を知的に理解しようとすることが多いのですが、本当はそちらよりも生活で身につける方が大事なのだと思います。仏教でも真宗は教義的ですが、禅宗は行や悟りが凌駕していると聞きます。新約聖書でも、イエスが批判した相手は論理を優先させる律法主義者でした。今日のバプテスト教会の「聖書教育カリキュラム」に登場しているパウロが戦ったのは「福音」を頭で理解してしまう「知識主義者(グノーシス)」でした。相手を生かし、自分も生かされる、そのような関係存在として目を開かせる力が”福音”(よろこびの訪れ)ではないでしょうか。「与る」って温かみのある言葉だと思いませんか。
(2003年7月27日 神戸バプテスト教会)
選句:”福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。”(コリントの信徒への手紙 一 9:23、新共同訳)

