2003年6月15日 川和教会礼拝
説教要旨(配布レジュメ)、説教原稿
(神戸教会牧師退任1年、川和教会牧師代務1年、
鎌倉在住、健作さん69歳)
ヨブ記 2:11-3:10
1.わたしのヨブ記との出会い。日本基督教団の教師試験を受けた時の旧約聖書の試験問題の一つは『ヨブ記の意義について記せ』というもの。当時の教団の教師検定試験委員長はヨブ記の研究者・浅野順一牧師。
2.「世界最大の書とは何か。それは聖書である。聖書中最大なるものは何か。それはヨブ記である。」(T.カーライルを引用した内村鑑三の言葉)。
3.ヨブの苦難とは何か。1〜2章の物語。信仰が因果応報であれば苦難の意味は明確。しかし、ヨブは財産や家族を失っても「私は裸で母の胎をでた。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と信仰を保った。不条理の苦難の問題。
4.人間の痛みは四つからなる。①身体的痛み、②精神的痛み(死の恐怖、人生の未完成、無念など)、③社会的痛み(疎外感や孤立感)、④霊的(スピリチュアル)な痛み(神からの隔絶感)、その全体が人間の痛み。
5.ヨブの三人の友人たちは、ヨブの痛みを慰めるために登場する。彼らは、変わり果てたヨブを見て、「話しかけることも出来なかった。」(ヨブ2:11, 2:13)。言葉の喪失からヨブ記のドラマは始まる。
6.旧約聖書の中で人が自分の誕生の日を呪う記述は2箇所ある(エレミヤ20:14-15、ヨブ3:3-4)。痛みの深刻の現れがそこにはある。
7.ヨブと友人とは対立する。友人はヨブを論駁する論理を最後まで変えない。「罪を犯したから、あなたは苦しむのだ(因果応報説)」と。それに対してヨブは「正しいものが何故苦しむのか」との叫びを変えない。
8.そこには、「論理」(自己完結)と「言葉」(破れていても相手への訴えがある)の攻めぎあいがある。
9.ヨブ記3章は、その叫びの始まり。ヨブの独白。しかし、他面、それはヨブが言葉を獲得する(実は与えられる)長い時間の経過の発端である。
10.ヨブ記3章。こんな暗い言葉はない。しかし、闇からであってもなお言葉が作存する。
11.難波紘一・辛矢さんのことを思い起こす。進行性筋ジストロフィーの発病からの言葉の獲得。
12.「言葉が肉となり、私たちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)は、ヨブ記と重ね合わせて示唆的。イエスの出来事とその経験そのもの。私たちは、人生の出来事に出会う度ごとに自分の言葉を、うめきを含めて紡ぎだして行きたい。
(2003年6月15日 川和教会礼拝)
