説教「愛されることから愛することへ」より抜粋
長野県の上田の近郊に「無言館」という美術館があります。一度行きましてから、大変に魅せられまして、そちらの方面に向かった時はよく訪れます。極めて静かで内面的なのです。それでいて、外の状況が戦争に傾いて来れば来るほど、反戦の訴えをもっているのです。この美術館が1979年に設立されて間もない頃、初めて行きましたが、もう三回行きました。出会うたびに新しい感動を与えられます。
「戦没画学生慰霊美術館」とありますように、美術大学で学んで、将来絵描きを目指していたり、独学で絵を描き、志を持っていたのに太平洋戦争の学徒動員や兵隊に収集され、ついに戦争で亡くなった人たちの遺された作品が集められています。それらの絵は戦後50年間、遺族によって大切にされていた作品です。
コンクリートの打ち抜きの建物そのものが、上から見たら十字架の形をしていて、「無言」の名に相応しくひっそりしていて、あたかも大きな棺のような美術館です。中に入ると、若い画学生が、あの戦争中、こんなに穏やかなテーマで絵を描いていたのかと、びっくりさせられるような作品や遺品が並んでいます。家族や妹、結婚間もない妻の姿、田園風景などです。
この美術館を建てた窪島誠一郎さんは、戦争を生き残って戦後大成した野見山暁治さんという画家が「死んでいった同僚の作品を集めたい」と言った話に心を動かされます。野見山さんの動機は極めて内面的なのです。そして、2年間かかって野見山さんのリストにある、戦没画学生の遺族を訪ねて、さらには全国の賛同者の支援で、この美術館を建てました。その話は、心温まる話なので、ほのぼのしたものを感じ、この人は本当によくやったな、という思いを抱いていました。
上田に行った時、ふと手にした窪島さんの本『「無言館」ものがたり』を読んで、もう一つ、心に残るものがありました。それは、窪島さんがこの仕事を、初めは、失われていく絵の為に、また野見山さんの亡くなった仲間のために、と思って始めたのですが、それが自分のためなのだ、という転換を遂げていくということです。しかもそれは、自分のためであると同時に、戦争を忘れないためなのだ、それは、戦争で一生貧乏をしていた父母を忘れないためなのだ、ということに絞り込まれていくことです。
しかし、そういう問題の取り組み方が、逆説的と言いますか、結果的にと言いますか、全ての人に反戦平和を訴えているという広がりを持っていることに、大変感動しました。反戦平和という考えや理念が先にあって、その実践を声高に行動して行きがちになります。窪島さんの場合は、小さな感動が積み重なって、いろいろなことが広がっていくところが、すごく爽やかなのです。
こんな話が載っています。
彼のお父さんとお母さんは、何年も前に83歳と86歳で亡くなっています。
ご両親は東京で靴屋さんをしていました。戦災で家が焼けて、戦後は道端で靴磨きをしていたそうです。三畳間の家で「戦争さえなければ」と愚痴をこぼす母親がとても嫌だったそうです。靴を縫う糸を丈夫にするために、チャコという松ヤニ糸を通す仕事を繰り返す毎日は、母親の愚痴とそれに苛立つ父親との大げんかが日常の出来事だったそうです。
ある日の夕方、学校から帰ると、その日は晩御飯にお汁粉が作ってあったそうです。それを窪島さんは引っ掛けてひっくり返してしまうのです。父親には殴られたのに、母はこぼれたお汁粉を集め、一杯分にして「誠ちゃんお食べ、泣くんじゃないよ」と彼の涙を拭いてくれたそうです。その夜は、父母は何も食べるものがなかったということは、後でわかったことでした。
「靴磨きなんて大嫌いだ」「汚くて最低だ」「サラリーマンになっていたら、こんな苦労はしなくて済むんだ」と悪態をついていたそうです。今思うと、父母はどんなに寂しくて辛い気持ちでいたかと思います、と書いています。
戦没画学生の遺族に出会っていくうちに、深い傷を負った中で、自分を生かした母の愛に出会うことになるのです。母に出会うことと戦争に出会うこと、戦没画学生に出会うことは、彼には一つのことでした。母の愛が、彼の閉ざされた心を開いていくのです。自分のことしか考えていなかった彼の心は、母の愛で、全ての人に開かれ繋がる広さを与えられていきます。「罪」ということを、閉ざされた心と考えるならば、母の愛が彼の罪を覆っていくのです。
窪島さんの生き方は、母の愛の認識を、反戦平和という「全て」の人の心の願いへと開いていきます。お母さんの愛は、誠ちゃんを「執り成す愛」でした。しかし、それは同時に、戦争という非人間的な状況を変えていく、大きな愛へと開かれたものでした。
愛は、愛されることから、愛することへと人を動かしていく大きな力なのです。
▶️ 無言館(外部リンク)