小磯画伯の婦人像 

「小磯先生はどうして洗礼をお受けになったのですか」

会食も終わって、テーブルスピーチも一通り済んで、座がくつろいでいた時、ふとある青年が後ろの席から大きな声で尋ねた。貞枝夫人と並んで正面に座っていた寡黙な画伯がすっくと立ち上がった。

教室で解答をする生徒のようなトーンで、

「母のつよいすすめによります。」

と語り終え、ゆっくりと席につかれた。その光景は今でも心に残っている。「文化功労者」となられた折、それを祝して神戸教会の有志が、教会の階下講堂で小さな集いを持った時のことであった。

その母とは小磯英さんのことである。あの頃のキリスト教には、ピューリタンの信仰を、生活と倫理に一貫させ、子供たちが畏敬の念を抱かざるを得ないような、「母」の存在があったのであろう。いつだったか鶴見俊輔さんが、キリスト教といえば母との闘いですよ、という意味のことを言われていたのを思い出す。

明治初期の婦人宣教師のたたずまいの、日本の教会への影響は大きかったに違いない。大正期の自由なモダニズムの中で青年期を過ごした画伯にはさぞ煙たかったに違いない、と思う。

昨年の6月、小磯画伯の日曜学校友達の一人だった吉田信さん(神戸教会員、元NHK音楽部長・日本レコード大賞審査委員長)が亡くなられた。東京で葬儀を行った私が、帰神後、画伯を訪問し、そのことをお知らせした。

「吉田君の母、近(ちか)さんはしっかり者だった」

と語られた。もう言葉がはっきりしないほどに弱られていて聴き取りにくかった。だが、そこには古(いにしえ)の婦人像の鮮明さがあった。いつものように短い祈りを捧げると「アーメン(然り)」を静かに唱和された。お別れして立ち上がり、玄関で靴を履いていると、いつの間にか付き添いの方を支えにして(その日、ご息女邦子さんは外出でご不在だった)、そろりそろりと歩いてこられ、わざわざ私を見送って下さった。慈しみをたたえた端正なその眼差し(まなざし)は、もうこの世にはない。

葬儀の後、甲南斎場で棺の前で最後の祈りを捧げた時、無性に涙が溢れてとまらなかった。その昔、新制作派展で、精緻な婦人像の前で、その気品に打たれていた少年の日の自分の姿が脳裏をよぎった。神戸という街など知る由もなかった頃のことである。

(サイト追記)本稿の発表日付は現在不明です。
随想・小磯先生を偲ぶ(1)