論考:「『死を悼むこと』の宣教的意味」より抜粋

2002.6.4

(サイト追記)本テキストは「子どもの死の意味を考える」(以下に所収)の展開を試みた論考「『死を悼むこと』の宣教的意味」の一部です。
・「子どもの文化」2002年1月号(子どもの文化研究所発行)
・2005年版『地の基震い動く時 – 阪神淡路大震災と教会』(コイノニア社 2005)


震災以後書いた、「死」に関わる文章との関連で。

1、家族の死を経験しなかった者達は、子供の死を胸に宿し続けている人達と、どうやって心を通わしたらよいのか。そんな荷物も持っています(虐殺を経験したパレスチナの現在を生きる人達とどうやって心を通わすのかという課題。虐殺を生み出した権力の構造の中での歴史の共有)。

2、地震以後、私は「流れる時間」と「流れない時間」の二つがあって、生きている者は流れる時間を忙しく生きているけれど、亡くなった人達は流れない時間をゆっくり生き始めているという気がしてなりません。……流れない時の中から、私たちに語りかけています。……私たちが時の流れの中で、あの地震によって告げられた鮮烈な事柄の数々を、忘却の彼方に手放しそうになる時、流れない時の中から、呼び戻してくれるのが、(亡くなった)K君やF子さん、なのです(悼まれることのない死の中にある人達との時間の共有ということ)。

3、クニさんの自作で毎年みんなで歌っている歌に『ぼくのこと まちのこと きみのこと』という小さな曲があります。

ぼくのこと/ぼくだけのこと/あのときを/しっている/おもいだしている/わすれないで/わすれないで

地震では6432人の方が亡くなられました。そのうち18歳未満のこどもは514人です。この一人一人に物語があります。その物語は「ぼくだけのこと」なのです。「わすれないで」とは、この物語を繰り返し繰り返し語るということです。

地震を経験して、亡くなった人を宿す街は、死者の数だけ物語が今も語られているのです。しかし、それはほんとうに密やかにです。その物語に心を寄せて、「流れる時間」に生きている者が、「流れない時間」に出会うことが、毎年『追悼コンサ-ト』を続ける意味だと思っています(死を悼むことは、物語の掘り起こしをすること、記憶の共有)。

4、地震で亡くなった6425人の中でも、将来に多くの可能性をもっていた子どもたちの死はほんとうに不条理の死です。……残されて生き始める者たちが、これら一人一人の「子ども」の死の重さを負って生き始めることは、衝撃的地震が促している、あたりまえになってしまっていた「大人」の価値観や文化を問い直しつづけてゆくことだ、との思いを新たにします(悼まれることのない死を悼むことは、歴史の不条理の死を、従来キリスト教神学で言われてきた『贖いの死』『贖罪死』の意味を、狭い意味で宗教的救いに限定するのではなくて、人間であることへの、命の絆へと開くことの共有、イエスの「復活」への理解について、佐藤研氏の神戸教会での講演は示唆に富む)。

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