ヨハネ18:12-32、現場の中の国家(2001 宣教学9)

2001.4.27、関西神学塾、「岩井健作」の宣教学(9)

(神戸教会牧師24年目、牧会44年目、健作さん67歳)

1.おことわり

 今週、神学塾の準備をする時間を、そのために幾つかの役割、会合を断って、多少なりとも準備のため空けておいたのですが、土壇場でその空けていた所に葬儀が入り、京都まで、二回の式に通い、二日間が塞がってしまったことは、如何ともしかねる事になってしまいました。このようなことは、一つの教会の教師をしていれば、当然なことなので、言い訳にもなりませんが、聖書テキストは、新しい箇所ではなく、筆者が『説教者のための聖書講解』(No.33, 80/12 教団出版局)に書いたヨハネ18章12~32節についてのものを手掛かりにさせて戴くことに致しました(別紙プリントB5.5枚参照)。

2.考えていたテ-マは「現場の中の国家」です。教会の「共同性(この言葉自身が、人間の本来の連帯的在り方を包括的に示すには不適切であるとは思いますが、歴史的には国家と並ぶ組織・機構であったことを考えて、敢えて用います)」が国家の権力的・支配的・懐柔的「共同性」を補完するものになるのか、それともそれを相対化して、「共に生きる」という、多面的人間存在の多様な「個」の出会いの在り方を包含的(inclusive)に創造する方向性を持つのか、その境目を問題にしたいと思います。それは基本的に「個」と「個」のかかわりの質に関係している、と同時に「個」の「国家」への関わり方に関係すると思いますが、宣教や牧会はこの関わり方を自覚する営みであることは前々回、前回と続けて述べてきました。今回は、その質が「戦いとられていく」あるいは「実現されていく」具体的場面とはどこなのか、そこでの実存的在り方への励ましの構造について考えたいと思います。

3.一例として、ヨハネ18章を手掛かりにします。

(サイト記)新共同訳の見出しは次のようになっています。
ヨハネ 18:12-14「イエス、大祭司のもとに連行される」
18:15-18 「ペトロ、イエスを知らないと言う」
18:19-24 「大祭司、イエスを尋問する」
18:25-27 「ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う」
18:28-38 「ピラトから尋問される」

4.ヨハネが他の福音書の物語の骨格を保ちつつ、現にユダヤ人による迫害に直面している「ヨハネの教会」の切迫した人々を励ましていることは、この福音書の性格として皆様はよくご存じだと存じます。一方では「勝利者」イエスが確信を持って宣べられます。他方でそのイエスは「闇の世」に輝く光として「闇(ユダヤ人、この世)」と歴史の細部でぶつかりあいます。「十字架の栄光」へ向かうとは、この細部での「ぶつかり方」が描かれることでもあります。ゆえにイエスが現実の壁、直面するこの世の理不尽に情熱を持って対処していく姿が、他の福音書に勝って描かれます。それが、現に迫害にある人々に励ましを与えているのです。

5.ヨハネ18章1節においては、イエスの逮捕にロ-マの軍隊が出動し、縛られます。これは他の福音書にはないヨハネの構成です。それに、22節では下役が、大祭司への態度が悪いとの理由でイエスを「平手打ち」にします(共観福音書では、神を冒涜したという理由で打たれている)。ヨハネでは、末端の「下役」に示される「権力」を「ユダヤ人たち(66回)」「世」という特有な抽象的表現で表しています。

6.ここでヨハネが表現する「闇と光」は「大状況化」ともいえる。神学はある意味では「大状況」を鮮明にする思考の様式である。しかし、光と闇は抽象的にぶつかるのではない。権力は、イエスを逮捕し捕縛する。ここまでは、それなりの権力側の言い分(「法」や「慣習」など理屈は付けるであろうが)でなされている。しかし、イエスを「平手打ち」にする「下役の一人」の「平手打ち」の理由は「大祭司に向かって、そんな返事の仕方があるか」(22節)ということである。「下役」といえば「私人」ではない。国家の権力機構の一端である。権力とのこのような対峙は、大状況とは異なった閉鎖的な「小状況」を示している。「現場の中の国家」とは、このような「小状況」での国家の姿をいう。イエスはこの下役の一人に向かって事柄の是非を問う。一人の人の内面に訴えて権力の行使の是非を問う。「正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と。

 ここでは「なぜわたしを打つのか」という問いが「打つ」ことの法的根拠を問うているとも思えるが、むしろそうではなくて、イエスの大祭司への態度についての、下役とイエスとの間の認識の違いを言っているのであろう。だとすると、下役への問いは、「法」の問題ではなくて、下役の人間としての良心の問題を問うていることになる。つまり、二人称の関係で問う。この問い方の中に、ヨハネ福音書がわざわざこの「小状況」における事件を取り上げたことの問題意識を見る。権力とイエスの関係を一括して三人称では問わない所に、ヨハネの「受難」理解の特徴がある。

 なぜなら、権力は常に相手を三人称として対象化するだけではなく、二人称の関係、個人対個人の関係の中に入り込んでくることを、この出来事は示しているからである。二人称の関係のなかで、相手を力でねじ伏せるのが権力の凄まじさである。この場面すなわち「現場の中の国家」があらわになる場面で、イエスは、下役に、二人称で問う。

 23節「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」とは、実に堂々とした問い掛けである。しかも、ここではイエスは縛られたままである。縛られたままでという「受難」の姿で、相手を人間として問い掛けることの崇高さが「受難と栄光」が重なっている所である。そして「受難と栄光」の二重性は、ヨハネ固有のテーマである。

6.ヨハネは「中状況」としての歴史における「義」については、旧約の預言書のようには語らない。しかし、当時の状況の尺度として作用する「真理」(18:38)、「愛」(13:35)という一般概念で問う。

7.今日、二人称の関係を保証する、一般概念・歴史概念の宝庫としての「日本国憲法」の存在意義は大きいのではないか。ヨハネから「小状況」での実存を学ぶと共に、それを保証する「中状況」へと思いを及ばせたい。

「岩井健作」の宣教学インデックス(2000-2007 宣教学)