捨てること《マタイ 19:23-30》(2001 礼拝説教・週報)

2001.1.21、 神戸教会週報、降誕節第4主日

(牧会43年、神戸教会牧師 23年目、健作さん67歳)

マタイ 19:23-30、説教題「捨てること」

「私たちは何もかも捨ててあなたに従ってきました」(マタイ 19:27)とペトロは言う。

”すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」”(マタイ 19:27、新共同訳)

「すぐに網を捨てて従った」(マタイ 4:20)と記されているから、ペトロはイエスに従ったことへの自負があるのだろう。

 しかし、その自負が災いするとは、微塵も気がついていないところに、ペトロの盲点がある。

 そして、私たちも例外ではない。このことを訴えるこの物語にどれほど食い下がれるか。


 マタイ福音書の文脈には”富”の問題、”所有”の問題がずっと続いている。

 6章の「山上の説教」の19節から34節で、”宝”について、”富(マモン)”について、”所有”の問題が共通分母になっている。

 マタイ10章9節から14節の”派遣”の説教では、旅の途上の”自発的貧しさ”が、明らかに弟子たちに対する基本命令になっている。

 13章22節の「富の惑わし」に対する伝統的な警告がそれに続く。

 16章26節には「全世界(全ての富)を手に入れても…そのことはその人にとって何の助けになろうか」と言われ、その結びの文は、タラントの譬えによって強調されている。

”「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それをえる。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。”(マタイ 16:24-26、新共同訳)

「何を食べ、また何を着ればよいのか……天の父の配慮にゆだねよ」とはマタイの基本線を示している。

”「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。”(マタイ 6:25、新共同訳)

 そして、19章16節から30節が続く。

 金持ちの青年とイエスの対話。イエスと弟子たちとの対話。

 ここに冒頭で触れた、ペトロの自負が出てくる。

 イエスはその自負を「額面」で肯定する。

”あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座って…十二部族を治める。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。”(マタイ 19:28-29、新共同訳)

 問題は、最後に付加されている一節である。

「しかし」以下。

しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」”(マタイ 19:30、新共同訳)

 この独立した格言的語録をここに付けることによって、全ては逆転する。

 19章16節以下の「富んだ青年」の物語においても、「みな守った」と言う青年に「持ち物を売り払え」と青年には不可能な要求をイエスはする。

「捨てた」と公言する弟子たちに、しかし、「先にいる多くの者が、後になる」と痛烈に、立場の逆転を宣言する。

「神の可能性」(26節)への価値尺度の転換への促しである。

”イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。”(マタイ 19:26、新共同訳)


「捨てる」ことが、行為に属しているのであれば「捨てたこと」にならない。

 それは、いみじくもマルコが「自分を捨て」(8:34)と言っているように、「捨てる」とは、自分が思っているだけで済むことではないのである。

 捨てることは、関係性の問題である。

 自己完結の論理を主張する「富める青年」、自負だけが強いペトロは、また「私」の投影ではないか。

「金持ちが天の国に入るのは難しい」は、弟子たちに向けた、認識情報ではなく、行動情報なのである。

”イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」”(マタイ 19:23-24、新共同訳)

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